つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーションのこと

杉田協士『ひかりの歌』

のれんをしまう店員。ほんのりと光が透過されるすりガラスのドア。まかないを食べ、一人の女性が店を去るのであろうか、多すぎない幾つかの言葉が交わされる。髪の長い女性と短い女性。髪の短い女性は高校の臨時教師として美術に関わっているようだ。髪の長い女性はどうやらバンドで歌っているようである。そして彼女はこれから旅に出るという。『ひかりの歌』は4つの短編(短歌)がひとつの映画を形つくる。そしてどの物語も映画の説明(=理由)に翻弄されることなく、そこにたまたまカメラが置いてあったかのように世界の一部を切り取る。

理由や意味づけから自由であり、既存の物語映画のような劇的な展開も皆無だ。臨時教師の彼女が買い物袋を持ち、同僚の家で料理を作り一緒に夕飯を食べる。彼女が彼を好きだとか、彼が彼女を好きだとか、そういった類型の物語ではなく、ただ一緒に食事をする。好きな女性がいる同僚は臨時の教師に背中を押されて、その彼女との食事の約束を取り付ける。野球部の青年は臨時教師に告白をして、日が暮れるまで彼女の肖像を描く。青年の友達は肖像を描いている間、空に向かってボールを投げて一人キャッチボールをしている。それを見た同僚の彼はその彼とキャッチボールをする。ここまで見ていてわかるのがコミュニケーションが淡々と遂行されること。教師が校舎と校舎をつなぐ外の廊下から野球部のボールが浮かんでくることを目撃するように、視線はいつでもどこでも交わされるかもしれない。描くことでコミュニケーションを求めた臨時教師はある女性から電話がかかってくると、彼女の姿を描く野球青年をそっち退けで電話越しの歌を聴き涙する。映画は理由を求めないのに、彼女の反応からひとつの意味を見出してしまう。

4章で長年行方知らずだった夫(と思われる男性)が中年の女性の元に帰ってきたとき。彼が運転する車の窓から見えるサイドミラー越しに映る過ぎ去る幾つかの車が、それまでの彼-彼女の関係を示しているように見えてくる。それには4章までに好きな人との別れ、臨時教師の期間満了、田舎に帰ってしまう想い人、父親の歩いてきた道を辿る——「別れ」の物語(短歌)が積み重なっていたからなのかもしれない。だから、彼らが並んで食事をする、「ただいま」-「おかえり」と交わされた言葉にこみ上げてくるものが生まれる。

2章で好きな人から告白されず自分もまたその人に想いを伝えることもできていないのに、自分は好きでもない人から告白される。意味を信じてしまうオロナミンCや、意味に見えたハグが次のショットで意味から慣習に変わる時、彼女はどう思ったのだろうか。その幾つかの出来事によって彼女を無限に走らせるし、暗闇の中で自販機の光はまるでプラネタリウムで見た星々の光のように輝く。彼女が暗闇(=フレームの奥)へ消えていく姿はなんとも寂し気な背中であったが、自販機の光を浴びた彼女もまたいつか輝くだろうと想いを寄せる。3章、カメラ屋でたまたまあった人に小樽まで連れて行ってもらい父親の歩いた道を行く。交換されたコートと衝動的に飛び乗った列車。どのエピソードも先にいったように理由が語られず、行動のみで映画を形つくる。

山田尚子論でも引用したけれど、映画はある地点からある地点への移り変わり、その瞬間を捉えたもの/捉えきれないもの(=蠢いているもの)であると信じてならない。

「私はいつも、二つのものの間を揺れ動いていました。[……]映画というのは、ひとつの極から別の極へ揺れ動くなにかなのです」ジャン=リュック・ゴダール『映画史(全)』(ちくま学芸文庫、2012)

映画は理由を必要としないから輝く。コミュニケーション(=視線)が導入されてこそ映画は豊かになる。1章で挿入される自転車に乗る彼らの後ろ姿。彼らがそこで本当に生きているように世界から切り取られたショット。ここに全てが詰まっている。

hikarinouta.jp

 

ゴダール 映画史(全) (ちくま学芸文庫)

ゴダール 映画史(全) (ちくま学芸文庫)