つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーション、音楽のこと

『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』1回目

数を数えるとき、1の次は2が一般的だろう。そして2の次は3であるし、3の次は4が待っている。1階の階段を上がると2階につくし、校庭を2回周れば2周目という。野球の試合を見ていると1回表、1回裏、2回表、3回裏、といったように続いていく。そのように私たちは数字を陸続きのように認識している。

さて、先日公開された『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』。このタイトルを見て違和感がないだろうか。例えば2017年に公開された『交響詩篇エウレカセブンハイエボリューション1』と比べると『ANEMONE』がついているとか。それも重要であるが、それよりもハイエボリューションの後に”2”がついていないということだ。1の次は2のはずなんだけど、2じゃない。どういうことか? 
『ハイエボ1』はレントン=記憶喪失者の語りによって映画が進行していき、レントンビームスというひとつの希望についての物語だったわけだけど、『ANEMONE』はエウレカになれなかったアネモネの物語であり、もうひとつのエウレカセブンないし、いうなればアネモネセブンなわけだ。メインになれなかったアネモネのあったかもしれない可能性の物語。

映画はANEMONEの世界からエウレカの世界にダイヴしていく大胆な構造。アネモネエウレカに接することで世界が書き換わる/塗り変わる。藤津亮太はこれを「垂直移動のイメージ」*1と呼ぶわけだけど、『ハイエボ1』があって『ハイエボ』があるというよりも、『ハイエボ1』もあるし『ハイエボ』もある。だから「PLAY BACK」で『ハイエボ1』で走っていたレントンと遭遇する。エウレカが「夢を見ちゃいけないの(?)」と嘆くようにすべてが夢物語のようなテクスチャで断片的な記憶と妄想が入り混じったカオス空間がスクリーンに立ち現れる。

『ハイエボ1』は記憶喪失者の物語だからナレーションによって時間軸の入れ子構造になっていたが、『ハイエボ』はもっとシンプルでこの世界のアネモネが違う世界にダイヴするといった構造。まるで磔にされたデューイ——十字イメージからキリストみたいな印象を受ける——がもうひとつの世界があることを示唆しているようにアネモネパラレルワールドというか並行世界を移動する。

前段でも触れたように藤津はダイヴするということやキービジュアルのイメージから「垂直移動のイメージ」と表現するんだけど、「夢を見ちゃいけないの(?)」というエウレカの発言もあるが、すべてが等価な世界だとして上下も何もないだろうと思っていて「垂直移動のイメージ」には少し懐疑的。確かに『ハイエボ1』の世界のすぐ隣に『ハイエボ』の世界があって、アネモネがそこへダイヴしていくといった構造をとると垂直に見えなくないが、もっと放射線のように広がったもの同士の世界ではないかと思う。諸事情あって『ハイエボ2』と謳っていなくて『ANEMONE』ってタイトルにしているらしいが、それだと余計に1があって2ではなくて、1もXもありうるみたいな。数字の話をしていくとゴダールかよって言いたくもなるが*2、シンプルに可能性についての物語なのではないだろうか。

あと今回の試みとしては京田知己監督のインタビューにもあるようにキャラクターをCGで描くことを実践している。映像的には違和感があるというか、どうしても私たちの慣れからするとノイズを感じる。もしわざと違和感を残していると考えたときにANEMONEの世界と映像表現が呼応しているように感じられるのも事実だ。世界に対して本当に自分(アネモネ)が存在しているのかが不安になるくらいにディストピアな世界が描かれているし、ダイヴを繰り返すことでそれまでと違った世界が目の前に訪れることになる。世界がおかしいのか、世界に対して自分がの方が異物なんではないだろうか? と思ってもおかしくはないだろう。それくらい世界の認識とキャラクターの認識がズレているし、視聴者もテレビシリーズ、ポケ虹、漫画、CR…などの複数の媒体が接続されたり切断されたりすることで固有のズレを味わうことになる。いわば世界のノイズとして、それを揺らがす存在として。

来年の『ハイエボ(3)』がどうなるかわからないが、1やANEMONEのように攻めた構造で終結してほしい。ということで、ANEMONEは傑作でしょう。

d.hatena.ne.jp

 

 

シネマの大義 廣瀬純映画論集

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*1:コラム | 映画『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』

*2:「1+1=3」や近年言っている「X+3=1」の話。廣瀬純『シネマの大義』のゴダール座談会を読むと面白い。

ラリー・クラーク『KIDS/キッズ』(1995)

若い男女がキスをしている。おおよそ真実を口にしていなさそうな若い男が彼女を口説く。

「何を考えているかわかるかい?」

「セックスでしょ?」

君のことばかり考えている。セックスは最高さ。妊娠なんてしない大丈夫さ。と嘘八百を口にしながらついに彼女と性交へ——。

若いということはそれだけで輝かしければそれだけで罪深い存在である。ストリートカルチャーどっぷりな彼らは当然のように万引きをするし、セックスの話ばかりする。親の金をくすねてマリファナを買えば喧嘩を売って仲間で寄ってたかってリンチもする。時間はたっぷりあるけど金はない。金がないけど女は口説きたい。何が魅力的なのか全くもってわからないが、女はホイホイとクズ男に引っかかっていく。金やクスリや酒を共有するように軽薄に女も共有する。誰かが固有の誰かのものではなく、みんながみんなのもの。それに誰もケチをつけないし、そこいらでセックスをしていても知らん顔。けだるくて軽薄な日々がフィルムに焼きついている。

男/女の会話をそれぞれモンタージュしたり、女の話をしているときにストリートカルチャー(スケボー等)の映像を組み合わせてみたりとまさに90年代感な編集か。特にこの頃というか、私は小学生だったのだけど、多分道徳とかの授業でHIV関連の映像をよく見たような記憶がある。それはテレビ経由も含まれていたかもしれないけど、彼らは家があるにも関わらずまるでカネフスキーの『ぼくら、20世紀の子供たち』(1993)のストリートチルドレンのようにストリートに生きている。ストリートでタバコを吸って、たまにマリファナやって、共通の友達と集まって飲んだりセックスしたりする。彼らには上下という価値観がなく、全てが等価であり、横のつながりが最優先される。2010年代がシェアの時代といわれるが、根本的に人間は誰かと誰かが繋がっていなければ生きてはいけない生き物——いわゆる大衆として——なんだなと改めて実感するような作品だ。

多分幾つかの似たようなテーマの作品を見たような気がするし、今見ても対して新しさのようなものは感じないけれど、フィルムの質感や彼らの気だるい表情。過去も未来もなくただ目の前の尻を追いかける彼らの軽薄さが生っぽく焼き付いているので、ひさびさに見ることができてよかった。この辺りそこまで追っていないけど、最近の映画だと『浮草たち』とか『グッド・タイム』あたりがメジャーどころのフォロワーだろうか。インディー系というと『パリ行き』も観光シーンがずっと続いていたら最高だったんだけど。

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「山田尚子」論に向けて(2)――古典から見る映画の振動について

前回「山田尚子」論に向けて思考の見取り図のようなものを書いてみたが、他にも書きたいことが出てきたので、(2)としてみた。続きというか、もっと断片的なことになるかもしれない。前回と同じくこの文章がそのまま本論につながっていくかわからないが、私が山田尚子を考えるにひとつのキーワードである「振動」について書き残しておく。どちらかというと「山田尚子」というよりも「映画」について考えるエントリーになっているかもしれない。

paranoid3333333.hatenablog.com

山田尚子」を考えるに『未来少年コナン』を物心ついたころぶりに鑑賞してから、高畑のテレビアニメも再鑑賞する必要があるなと思いつつ映画の古典も必須だ……という思いに駆られて古典の再鑑賞も実施していた。

小津の『浮草物語』における切返しとアクションつなぎカッティング・イン・アクション)を見ているとやはりアクションが止まらないなと。「アクション映画」と打って出ている映画よりはるかにアクションが止まらないことがわかる。絶えず映画が振動していて画面から目を離せない。最近『万引き家族』での擬似親子が釣りをするシーンの指摘で『父ありき』が引用されているって話があるけど、あれは『万引き家族』の「物語」の枠組みがそれを要求するだけであって、小津のような絶えず流動するアクションの中で発生しているわけではなく、同じように使用されているかといえば似通ったものではないということがはっきりわかる。小津はこんなにも停滞しないから。こんなことを書いているのも『浮草物語』にも『父ありき』同様に釣りのシーンがあるからなんだけど。

脱線したので話を戻すと、まあ小津は「すごいだろう……」って感じなんだけど、マキノも見返しているとやっぱりすごい。『次郎長三国志 第二部 次郎長初旅』で次朗長が駆け落ちした若いカップルの仲を取りもとうと彼女の両親に挨拶するシーン。狭い路地裏っていう場も味噌なのだけど、次朗長と彼女の父親の切り返しから娘の相手が出てきた途端に父親の様子が変わる。ここから彼を箒? で殴るんだけど、カッティングインアクションから少し長めのワンカット。殴る父親をミディアムショットで捉えて引きのショット(娘の相手は映さない)。そして叩き終わったあと彼女の父親は泣いてしまう。さっきまで娘は嫁にやらないといっていた彼女の父親が「あいつを立派なヤクザにしてくれ」って頼むんだけど、そこからのショットがとんでもない。カメラが次朗長を捉えゆっくり左へ動いていき、父親が後ろから「立派なヤクザにしてくれ!」って頼む。次朗長が振り返り「いけねえ!」って叫んでびっくりした父親が慄く。そのとき方向が左への運動から右へと逆向きになる。次朗長の対岸側は狭い路地裏で壁になっているので運動はせき止められてしまうが、そこにいた仲間が次朗長の「いけねえ!」っていう運動を受け取ってしまってクシャミをしてしまう。そのクシャミが仲間にも連鎖していく……というものすごいシーン。逆向きになった運動は直線方向には進めなくなってしまって、壁にぶつかって拡散していく…という。クシャミをするのはふんどし一丁だから、ふんどし一丁なのは着物が盗まれるから、着物が盗まれるのはお金が必要だから、お金が必要なのは料理屋が旅人をもてなすため……と、いつまでも続けられるけれど、何が言いたいかというとアクションが止まらないってこと。

映画は絵画ではないのだからいくら端正なショットを羅列しても運動が起きない。モンタージュなりなんなりもあるけれど、映画が意味から解き放たれて画面に眩いばかりの光を生むのは、こういった運動がつながっているように見えるからに他ならないのではないだろうか。かっこつけた言い方だと「身体」的な体験。「フィーリングで映画を見る」って感じだろうか。感覚は個人のものなので、なかなか言語化するのが難しく抽象的な表現になってしまうが、私には言語化することが極めて重要な事柄だと感じる。頭ではなく身体で感じること。それを言葉にしたい。

ではアニメーションにおける「振動」って何だろうか? 「映像」単位でいえば今の話を援用することも可能だろうし、すべてを表層で語るのであればそれも可能だろう。しかしもともと動いているもの――動いているものを動かないように撮る映画もあるので切り分けるのが困難であるが――を撮影する映画と、動きを創出しなければならないアニメーションとはまず仕組みから根本に違うのである。例えばドゥルーズの哲学から影響を受けたトーマス・ラマールは『アニメ・マシーン』にて、「シネマティズム」と「アニメティズム」に分けて説明している。

 

表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:トピックス (4)

(引用がめんどくさかったので未読の方はこの辺りを参照ください)

 

ラマールは日本のアニメおよびアニメーションから諸レイヤーの間隔で発生する運動について論じている。実写であれば見たまま(という言い方には語弊がありそうだが)に、あるものを映すといった行為から始めるが*1、絵を組み合わせてレイヤーの前にあるもの、後ろにあるもの、中間にあるものを動かして運動を生成するアニメーションとはそもそも映っているものが違う。*2 仮に実写でなくてアニメであっても——ラマールがいうシネマティズムのように——一点透視図法で描かれたものは奥行きを感じるだろう。鑑賞者が感じることは似通っていてもやっぱり映画とアニメーションではそもそも違いがある。それが人形アニメーションであったとしても、人形はひとりでに動くことはない。誰かが動かさなければならない。

アニメーション固有というと水江未来にも注目したい。音響の使い方が巧みなアニメーション作家であり、画面上のオブジェクト常に振動しているかのような印象を受ける。細胞アニメーションといわれる作品や幾何学アニメーションなるものもあるが、彼のアニメーションは運動と音楽が絡みって空間を生成している。

vimeo.com

なぜ音響について考えているかというと、画面が振動するには空間が必要であり、空間を作るには音響が必要ではないかと感じているからだ。(もちろんトーキー以前の古典から「振動」を感じているので、サイレント映画でも空間は存在するし「振動」もするということも頭にいれておく。)それはもちろん山田尚子を考えるにも重要な事柄だと感じている。特に牛尾憲輔が音楽を手がけた『聲の形』と『リズと青い鳥』が示唆的な内容だったと感じられる。『リズと青い鳥』でふたりのすれ違った空間を作り上げたのも彼の音楽が役割を担っているし、山田と牛尾の共通言語も作品が触覚という概念を呼び込んでいるように思える。*3

触覚的な受容は、注目よりも、むしろ慣れという方途を辿る。建築においては、慣れをつうじてこの受容が、視覚的な受容をさえも大幅に規定してくる。(『複製技術時代の芸術作品』ヴァルター・ベンヤミン

 先日、多木浩二ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(岩波現代文庫)を通じて『複製〜』を読み直すなどをしていたのだけど、どうも「9、触覚の人ベンヤミン」がキーになるような気もしないでもない。まだ整理できていないが、私が思う「振動」の果てに「触覚的受容」がベースになっているのではないか? そういえばアニクリ6.0にて『傷物語』を丹下健三の建築を手がかりに書いたように、空間的なものを考えるにもつながってくるように思えてならない。

まだまだ言語化できないが、「触覚」が山田尚子の映画と結びつきオブジェクト同士がつながってしまうような——レイヤーを超えていくことがありえてしまうのではないか? ということも考えていきたい。それにはもっとアニメーションを見る必要がある。さて、書きたいことが膨らみ過ぎてきたが、果たして本論はかけるのであろうか。また(3)に続くのだろうか。

 

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

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複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

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*1:もちろん今では実写映画でもCG全盛期であり、例えばマーベル作品においてもその扱いは顕著だろうアニメともいえなくもないかもしれない。ただ、実写とCGの組み合わせにしろ、役者が”どこか”で演技をしているといった絶対条件は外せないのでまったくゼロから作るアニメーションとはま違うものだと思うが。

*2:ここでいうアニメーションという言葉の用法は極めて限定的な使用方法。

*3:映画「聲の形牛尾憲輔インタビュー山田尚子とのセッションが形づくる音楽 https://animeanime.jp/article/2016/09/16/30521_2.html