つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーション、音楽のこと

映画雑記04

公開ひと月も経たないまま上映館が少なく、数日前の予約でなければ取れなかった『プロメア』。キャラ造形と物語は今石x中島の手癖によるところが大きく、作画監にすしお氏が入っていることからも『グレンラガン』を想起するような造形だらけ。とにかく動き回るといった話から、『超 ブロリー』のようなメリハリのないアクションを予期していたが、これが案外メリハリが付いていて悪くない。ただ、ピークは冒頭のボス戦のカメラワークであり、終わりに行くにつれて熱量は上がってもこちらに湧き上がるものなし。やっぱり『パンスト』や『ルル子』あたりの短めの尺(『DEAD LEAVES』も悪くないけど)が、この作家いちばんの持ち味を出せると感じた。

映画において無重力空間や抽象的に描かれた海の「映像」作品ほど、見ていて苦痛なことはない。海獣の子供は円の主題を浮かび上がらせるが、結局のところ意味に帰結してしまっているところに鈍臭さが宿ってしまった。それと画面に対する信頼がなさすぎる。あれだけ画面で勝負するならば、やけくそみたいな音楽消した方がいいし、環境音だけで十分興味を沸かせる作品になるだろう。ルカが何かに気づくと「ピン」ってなる音とか何考えているんだろうと。ラストでテレンス・マリックになってからはもう心が死にました。

傑作『ザ・ベビーシッター』ぶりにマックG『リム・オブ・ザ・ワールド』(ネトフリ鑑賞)。例えばエイリアンが何も変哲もないプールから半日も出てこれないか? とか、オープニングの安っぽい『ゼロ・グラビティ』は何だったんだ? カメラが揺れすぎだし、それでも『宇宙戦争』やりたいのか? とかあらゆる文句は想定されるが、それでもマックGは映画を転がしていく才能に溢れている。たまたまキャンプに集まった子供たちが、たまたまエイリアンの襲撃にあって、たまたま落ちてきた宇宙船に乗っていた女性から世界を救う鍵を渡され——と行き当たりばったりに世界を救ってしまう。まるであってもなくても世界なんて救えるのではないか、と思いそうなどうでもいい鍵(マクガフィン)が奪われそうになったり、エイリアンのそばに置いてきてしまったり、と常に運動によってスムーズに展開していくので見やすい。それと子供が意味を知らないから投げるワインによって物語が展開されたり、音によってピンチになってしまったり——とにかく映画(moving picture)であろうとする。それと一応ジュブナイルものとして、トラウマが回収されたりと100分切ってよくやりきったと感心するばかり。

行き当たりばったりというと黒沢清『旅のおわり世界のはじまり』も、ウズベキスタンでのバラエティ制作、言葉がわからない前田敦子といった設定から彼女が動くしかないのである。そのロケ地と設定によって彼女がうろうろ歩いても気にならないし、単純に画面から人が出たり入ったりするのが続く気持ちいい映画。これが『クリーピー』のように奇妙な動きになると急に鈍臭くなるのは「物語」の持つ呪いのようなものなんだろうか。冒頭はどうしてもそのバイクが走っているところを後ろから撮りたかったのだろうな、と思わせるヤンやらシャオシェンを彷彿とさせるショット。それから唄に誘われて『去年マリエンバードで』みたいな迷宮感のある建物に入っていくと、劇場でオーケストラが演奏していて気がつけば前田敦子がステージに立ち「愛の讃歌」を歌う。このシーンは絶品だ。しかし、またしても120分を切れなかった黒沢清は物語に呪われているのか、前田敦子の彼氏が死んでしまったかもしれないといったつまらないエピソードを挟んでしまう。モニタに映る火事は『カリスマ』を連想させたが、悩んで何も行動しなくなってしまったら面白く無くなるに決まっている。加瀬亮とのモーニングシーンも全てカットして短くしたらもっとよくなったように思える。といっても、『リアル』以降の長編では上位だろう。中編挟むと『セブンスコード』には劣るのだけど。

行き当たりばったりシリーズで『復讐者のメロディ』WOWOW鑑賞(未公開)。刑務所から出てきた男がたまたま住んだ場所で、たまたま事件に遭遇してしまい、たまたま人殺しをしてしまう——川の流れのように繋がれた運動で満たされた映画で素晴らしかった。冒頭からサボってタバコを吸っていた娘が、屋上から彼を目撃し、何事もなかったかのように洗濯場に戻り、彼が「チン」と鳴らしたベルに反応して出てくる——といった一連の運動。そして、目撃された男はカーテンの隙間からたまたま見えた彼女の行動によって、巻き込まれてしまう。巻き込まれた男は彼女の叫びで銃の前に立ち、これまたその男を職場で発見して殺してしまう。死体を隠そうとしたら浮浪者に目撃されてしまうし、常に「窃視」することでスムーズな運動が展開される心地よさ。しかも最後は隠した銃で撃ち殺す。90分切るんだから恐ろしい。

思わずオリヴェイラのベスト級では? とひっくり返った『um século de energia

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四重奏から始まりパンして黒白フィルムの上映。ここで赤い服を来た女性たちがダンスしているのだけど、影といいそのダンスといい思わずひっくり返るようなすごいショットの連続。河の過去/現在が交錯するショットには涙なしに見られない。これはちょっと凄すぎるね。今年見た中でもベスト級。

それと廉価版が発売されていたので『妖女ゴーゴン』を見た。やはり黒沢清はこの辺りから風の使い方や照明も影響を受けていると思うんだけど、ペドロ・コスタの方が何枚も上手だ。多分この辺りの照明がなければ『ホース・マネー』も生まれなかったんではないだろうか。それは知らんけども。鏡や水面に映るショットがかっこよかった。それと物語的に切なくて好み(おセンチ)。

妖女ゴーゴン(スペシャル・プライス) [DVD]

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カリスマ [DVD]

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映画雑記03

真夜中のひと気のいない夜の路線が映される。そこに置かれたカメラはしばらくの間そのまま静止する。すると列車の暖かなヘッドライトの光が見えてくるとガタン・・・ゴトン・・・といった音とともに、ホーム(画面)手前から奥に向かって電車が到達する。実に静かなオープニングと列車が奥からか、手前からか、と私たちを宙吊りにさせるようなサスペンスフルなショットから始まる『嵐電』は、森見登美彦が描く摩訶不思議な京都ではなく骨太な映画だったことが幸いだったというべきか。たまたま京都の撮影所で映画を作ることになった俳優、たまたま撮影所に弁当を届けることになってその俳優に気に入られる女性、路線の不思議話をネタとして出版しようとする先生、修学旅行で訪れた京都で恋に落ちる女学生、そして恋される男子学生。撮影所に巻き込まれた女性はまるで何かに取り付かれたように演技する(右への横移動が気持ちいい)。しかし彼女は女性は俳優に電話番号を聞かれても答えない。「駅で待っている」とだけ残し去っていく。脚本読みをしながら仲むつまじく駆けていく。彼女に台本を渡したままに気づいた彼は彼女の家の近くの駅で夜まで彼女を待つ。まるでストーカー扱いされた彼から逃げようとする彼女。彼女のつかず離れずの態度によって距離が生まれ、同時に揺らぎを与える。両者のバックグラウンドに対する語りが少ないからこそ、より際立つ。細部を拾ってみると骨太の映画だと感じるのだが、私のバイタルが悪かったのか、あまりノレなかった。まあ、ノレなかったなんて言葉は私の言い訳にしかすぎなくて、映画にはまったく関係のないことなんだろうけど。しかし『ゾンからのメッセージ』はみたいのでどこかでかからないものだろうか。

やたらとスケールの大きさを誇張しようと画策する『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』。人間の顔ドアップショットでつながれるドラマは、怪獣を使って世界を清算しようともくろむ勢力と、それを阻止しようとする勢力といったよくある対立が始まり、世界の神話やら何やら暴いてやろうなんて・・・(しまいには地底のゴジラの家なるものまでにたどり着く)、と誕生から終わりまですべて語らなければならない! といった退屈な代物でとにかく残念。全編ほとんど曇りもしくは雨のような真っ暗なシーンであるし、人間起点な物語にしようとするあまりか、ほとんどの戦闘が人間から見上げた怪獣たち(これであれば単なる天災と変わらない)といったつまらない描写に陥る。怪獣が人間を殺すシーンなんて貧乏くさいし、人間なんて勝手に死んでいてください・・・といったところだ。オマージュも形だけやりました、オタクでしょ、的なノリにうんざり。デストロイアは日本の細身のゴジラだから効果が出るのであって、あんなマッチョのゴジラが赤くなったところで得るものはなにもない。

男1:女2で車移動といえば『カルフォルニア・ドールズ』を想起するわけだけれども、あまり面白いとは思えなかった『さよならくちびる』。たとえば、工場で働いている時に特に理由も告げずに小松菜奈に「私と音楽やらない?」と問いかけるシーンや、カレーを食べて思わず泣いてしまう小松菜奈など、何かしらの理由がありそうにも明確に語られない。この辺りはとても好みだったし、小松と成田がレコ屋でレコード鑑定しているシーン(現実では起こりえないだろう…)からの流れはとてもいい。ただライヴのときに語ったホームレスのおじさんのエピソードや門脇の実家でのエピソードを映像でもう一度見せるあたりは、過度な印象を受けた。それと帰路中の車窓からの風景をサウンドスケープとともにたら〜っと流してしまう感性はどうにも苦手。

ギヨーム・ブラック『7月の物語』

オープニング。長めに映されたショットで、階段から降りてきた少女が踊り場の壁をひたすら殴る蹴る場面を捉える。しばらく壁との攻防が続くと、階段から彼女の知り合いらしき女性が降りてきて声をかける。スタンダードの画面効果か、彼女らの位置関係にメリハリがつく。また真ん中に建てられた支柱が彼女らを分断するかのよう。階段から降りてきた女性が怒っている理由を聞く。次のカットではその女性のアップショット、そして怒っていた女性との切り返しが始まる。壁を殴っていたショットもさることながら、大胆に? というか、長めのショットからアップショットへのタイミングのよさ。決していやらしくない程度のダイナミックさを味あわせ、二人の関係をロケーション(階段)とスタンダードの画面で演出してしまうギヨーム・ブラックには惚れ惚れさせられる。また約7~8ショット目に怒っていた彼女が待ち合わせをしているシーンがある。先ほどの会話の流れでは話していた女性はこれないはずだが、誰を待っているのか。誰を待っているかなんかは二の次であり、彼女が傘(だと思うが自信がない)を落とすと次のショットに移るといった編集の心地よさ。一見するとバカンス映画に見えるこの映画は実に巧みなショットと編集によって構成されている。でなければ、フェイシングをしている彼に近づきすぎて危うく剣先に触れそうになるショットや、その練習中にアクシデントが起こるショットを捉えることはできないだろう。決してバカンス=ゆるさ、ではなく想定外の自体が起きるといったことと、そのハプニングに対応する身体についての映画である。

それと併映された『勇者たちの休息』を見ても明らかなように、彼の映画には何かが繰り返し描かれていたり、何かと何かを対比させることが数多く見受けられる。ナンパしてくる男の彼女と、ナンパされる彼女の顔は広義の意味で似通っているし、水上スキーで失敗して「足首折れた」と川から引き上げられる女性は、ナンパしたことがバレて川に突き落とされる男が必死に桟橋に上がろうとする彼のショットとそっくりだ。彼女に「勘違い」された彼女は柔道で転がされ、フェイシングでミスった彼女は草の上に転がる。「勘違い」は2部でも同じく、何事の説明もなく始まったオープニングショット。恋人同士の関係にも見えるが、寝ている二人のうち先に男が起き上がり、彼女の胸に触れようとする。しかしギリギリ手を触れず、彼女の寝顔を見ながら自慰にふける。そしてすぐ後に彼女がいきなり起き出し、彼は股間を必死に隠し、出て行く羽目になる。ここでもハプニングが映画に運動を与えている。ノルウェーに住む彼とのテレビ電話を終えて、外出する彼女。そしてその彼女に目をつける青年。気がつくか、つかないか、のギリギリの距離感を保ちながら彼は近くが、ついてきていたことがバレバレだったことがわかる。花火に誘われた彼女は部屋に帰り意気揚々と準備をするが、ここで朝のマスかき男が部屋に入ってくる。ナンパされた彼がバイクで迎えに来たところで、マスかき男も窓から彼を確認する。どうも「勘違い」を誘発させる窓=フレーム内フレームによって「お前は誰だ?」となったマスかき男はバイクの彼に俺は彼氏だと言い張り、彼をぶん殴って血だらけにしてしまう。そこでもう一人の男が登場し、彼の鼻は折れていないと診断する。思えば1部でナンパ男が足首を折れていないと診断したことも忘れてはならない。

彼はナンパ男だ。血だらけになりながらも彼女にキスを迫ろうとするのはさすが、というべきか。ここで見ておかなければならないのはマスかき男も彼女に触れようとするが、触れられない。このナンパライダーもギリギリのところで彼女に触れられない。もちろん国にいる彼氏とも肌と肌は触れ合うことはできない。しかし、お互い何も感情もない酒場のノリのときだけ肌と肌が接触する。「勘違い」と「ハプニング」はセットで繰り返されながらも、ダンスシーンで積極的に彼と踊りにいった彼女は何を思ったのだろうか。いや、そこに行動規範はなく、彼を思う彼女が介入し、そしてドアを開閉させて外に出て行ってしまう、といった瞬間的なハプニングを捉えるために存在したとしか思えない。夏の終わりを暗示させるような花火が寮内に響き渡り、ひとつのニュースが流れてくる。廊下を捉えたショットはどれも美しいが、夏の終わりを際立たせるように花火の音が廊下に共鳴し、そこには何かがあったけれど、何もなかったのではなかったのであろうか? とも思わせるような空虚なイメージを思い浮かばせる。彼女がマスかき男に最後にキスをして別れる。その男の孤独さは『女っ気なし』を少し思い出させる。何もかもうまくいかなかった最終日を味わい去っていく彼女の背中に、私たちの視線が向けられる。

ギヨーム・ブラック監督『女っ気なし』DVD

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