つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーション、音楽のこと

『霊障』発刊について(5/16文フリ東京チ-33)

2021年5月16日(日)に開催される第三十二回文学フリマ東京にて、当サークル・心霊ビデオ研究会(略:心ビ研)は、心霊ビデオ評論誌『霊障』を発刊いたしましす。

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www.trc-event.jp

 

タイトル:霊障

ページ数:204頁

販売場所:東京流通センター(第一展示場)

ブース :チ-33

価格  :1,500円 (税込)

*イベント価格になります。

 

以下会場地図ですが、「チ」のブースになるので一般来場入口から入って左側になります。最近の大型イベントでは必須事項ですが、COCOAをダウンロードしておく必要があります。ダウンロードできない端末の方は確か連絡先を記入するような対応だったかと思います。会場人数制限をしているようなので、一般来場者は入ったら1時間以内で出るような対応になるかと。当日来るのが難しいよーという方もいるかと思いますので、後日通販も実施予定です。そちらはまた霊障公式アカウント(Twitter:@gv_reserchers)で後日告知予定です。

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目次

①序文

 文章:ハスノミライ

 

②児玉監督インタビュー

 インタビューアー:編集部(田川勉、ハスノミライ、ふぢのやまい

 

③心霊ビデオガイド (心霊ビデオ128本レビュー)

 執筆者:okadadaDJ/ producer)、オタゴン(バーチャルYouTuber)、田村将章(映画監督)、まこー(映画ファン)、ケイシ(映画ファン)、ゆっき~(映画ファン)、編集部(田川勉、ハスノミライ、ふぢのやまい

 

④論考

 1)木澤佐登志「霊は細部に宿り給う、とでもいうのだろうか ――『ほんとにあった!呪いのビデオ』のクリティカル・ポイント」

 

 2)ハスノミライ「フィクションとドキュメンタリーのあいだを巡る冒険——心霊ビデオ」

 

 3)鈴木潤「「投稿動画」に現れる邪眼―「ようすけくん」(『闇動画10』)に見る、1980年代ホラービデオからの継承と断絶―」

 

⑤小説

 上村太「ZINEに寄せて」

 

⑥編集後記

 文章:ハスノミライ 

本アカウント(@paranoid3333333)はハスノミライ名義で書いています。今回、創刊号ということで、参加者を見ると「心霊ビデオ」ファンはもちろんのこと専門外の方にも寄稿いただいています。ファンによるマニアックな語りというものも私自身好きなのですが、今回の雑誌はこんなに面白い心霊ビデオをファンだけのものにはしたくないという思いがありました。そのため一方向の価値観だけではなく、専門分野外の人にも論じていただくことでさまざまな角度から言葉を与えていく必要があるのではないかと。なぜならば、心霊ビデオは現在変革期の真っ只中です。昨年、新宿TSUTAYAが閉店したのは記憶に新しいかと思いますが、新宿だけではなく全国的に数多くのレンタルビデオ店が閉店しています。心霊ビデオはホラー映画とは違い、オリジナルビデオ作品としてレンタルビデオ事業とともに成長してきたジャンルでした。そのビジネスを担うレンタルビデオ店が縮小傾向にあるので、心霊ビデオ業界は変化を求められています。『ほんとにあった!呪いのビデオ』のパル企画YouTubeに過去作の一部をアップしたり、アムモ98などはニコニコ動画に自社ちゃんねるを設けるなどレンタル事業からインターネットへの参画を図っています。また、2010年代は素人が映像を投稿することが容易になりました。それにより心霊ビデオは投稿数も増えましたが、YouTubeがあれば素人はそこでオリジナルコンテンツを配信することが可能になりました。ゾゾゾは人気ユーチューバーですし、プロ/アマチュア問わず「心霊」はどこでも見られる。だからこそ、『ほん呪』から始まった心霊ビデオの歴史を整理して本として残しておきたかったという思いもあります。

さて、こんなご時世なので、来場される方は感染対策をしっかりしてご来場いただければと思います。では。

ヒョウソウ、ガイブ、ジブンガタリ『花束みたいな恋をした』

「大学生の頃、髪を赤く染めて高校の時に始めたギターで、XのBLUE BLOODを練習したけど、練習嫌いだったからすぐ辞めちゃったな。スラッシュドミネイションでテスタメントを見て、運動会(サークルモッシュ)したなあ〜。ムックが明るくなっちゃって、残念だな〜。X復活まじかよ?って人生すぎるからもちろんいったけど、やっぱりラスティーネイルからまじで号泣。本当に明日が見えないもんだな、とかつまらないことmixiに書いてた気がする。池澤夏樹の世界文学全集でオン・ザ・ロード巨匠とマルガリータを読んで、ガイブン読んでる感にひたっていたかな〜。叶精二さんの話を聞いて、アニメをまた好きになれたなあ。そうそうエウレカセブンが大好きだったし、グレンラガンを見て「忘れるものかこの一分一秒を」とか言ってたなあ。渋谷でともだちとライトセーバー振り回してたな〜。服が大好きで中目黒や高円寺に入りびたったり、大阪に行ってロフトマンやべー!関西系やばいべ!って唸ってたな〜。大学でいちばんのロン毛だったのだけどキモがられていたんだろうな〜。ともだちとデンパにいって、オタクカルチャーがマス層に届く感じってこのことなんだろうな〜とか。ショップ店員と仲良しになってセールになっていない服もセールしてくれたな〜。年越しはともだちが働いているクラブでわちゃわちゃ仲良したちとパリピ(っぽいこと)やってたな〜。ファッション批評にも興味があって鷲田清一とかロラン・バルトかじってたな〜とか、ん? あれ? GASTUNK*1まで出てくるの?」

画面にガスタンクが映っているのに、「GASTUNK好きなの?」と一瞬でも思ってしまった私は画面を見ていないし、この映画にとって都合のいい観客になってしまったのだろう。

そう、どうでもいい自分語りの世界に浸ってしまっていた。

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『花束みたいな恋をした』には、一度も「花束」が出てこない。このタイトルにいかなる理由を見出すか、そんな遊びが氾濫している。でも、そんなものには意味がない。いや、むしろ意味しかない。花束はでてこないけど、花の写真は出てくる。菅田将暉が写真を指差して、「この花ってよく見るけどなんて名前の花?」と聞くと、「女の子から花の名前を教えてもらったら、その花を見るたびにその人の名前が浮かんでくるんだよ。別れても」(台詞うろ覚え)と有村架純が答える。どうやら、これはサブカル知識から有村架純が答えたらしい(私はまったくわからなかった)。本作における「サブカル」は、あくまで物語上で彼・彼女が出会う/別れる、までを感傷的に描くための道具である。それらが演出として画面上でどこまで効果を見せているかは怪しいところではある。物語が想定する範囲の言葉であるし、映画の外部の話なのである。別にそれが悪い/いい、といったことなんて今はどうでもいい。

ふたりが付き合う前、横並びで歩いていると有村架純の心の声(ナレーション)で、「この人、電車に”ゆられて”っていった」という文学的な表現への指摘がある。菅田から(おそらく)無意識に発せられた言葉が、自分を形成する文学的な言葉に感動してしまうくだりなのであるが、文学的な表現があるのであれば映画的な表現はどこにあるのだろうか、と考えていた。でも、そもそも「映画的」といった表現とは一体なんだろうか?

よく批評で出てくるのは、初期映画(リュミエール)を見た人たちは、物語よりも木々の動きや砂埃、海の波飛沫、などの自然現象に驚いていた(関心をおいていた)という言説から、映画=運動といった構図での読み解きである(かなり説明を省略しているので気になる人は、長谷『映画というテクノロジー経験』あたりを読んでいただきたい)。当時は無声(サイレント)映画だったことから、運動に着目していたと考えに導かれていたのではないか。

しかし、現代はトーキー映画が主流であり、肉声以外にも環境音が映画に記録されているし、画面はモノクロではなくてカラーが主流である。カメラはデジタルになり、編集でいかほどにも画面を変えることができる。また、わざわざセットを組まなくても3DCGを使うことで世界ところか宇宙にでもいったように画面を作ることができる。画面構成や表現のバリュエーション、そして方法が増えたといったことで、画面自体の情報量が増えたと勘違いしてはならない。画面の大きさは、スタンダード、ビスタ(アメリカン、ヨーロピアン)、シネスコ等で、初期映画時代からさほど変わっていない。高性能カメラによる解像度は上がっても、情報量は画面に支配されている。

そう、表現方法は違えど(音声と色以外の)画面の情報量にさほどの変化はないので、運動こそが映画である、といった価値判断が少しくらいあってもおかしくはないだろう。あとはなんだろう? そう、ショット(=映画の最小単位)という言葉がある。「これは必要/不必要なショットだ。これは決定的なショットだ」といった言葉の数々。この辺りはシネフィルが云々の不毛な議論に進みそうなので蓮實重彦に頼ってしまおう。そういえば、蓮實重彦がショットに迫る連載をしていたなと、本棚から『群像』を探し当てる。

(…)そこに見られるショットの種類は、その長さやアングルはさまざまに異なっていながら、そのいづれにおいてもショットの厳密でありながらも穏やかな運動性、あるいは穏やかでありながらも厳密きわまりない運動性ともいうべきものが、わたしたちをとらえて話しません。そこでは、ショットが作品そのものから解放されており、同時にわたしたち自信を映画から解放してくれるような思いをいだかせてくれるからです。——「ショットは何か」181頁(『群像』第76巻第2号)

(…)そのとき、スクリーンを領しているのは、午前中の日差しを屋内で受けとめる彼女の横顔だけなのです。だが、そのプロフィールが不意におさまる不動性が、かえって彼女自信が演じたあれこれの身振りをあらゆる者に想起させずにはおきません。まさに、いくえもの生を素描しているかのようなこの素晴らしいルーニー・マーラの凝固したかのようなプロフィールこそ、ショットそのものの定義ともいうべき「寡黙」なる「雄弁」にほかならぬはずだと、いま、わたしは、深く確信することができるのです。——「ショットとは何か」188頁

これらは、彼の映画批評に触れていたものであれば、言葉の差異はあれど前々から言っていることと変わっていないと思うのではないだろうか。映画には物語がつきものであるが、ときより意味から解き放たれたショットというものが存在する。その瞬間は映画を見ていたことも忘れるかのように、ただそこに映っているものに感動してしまうような。「不動性」、俳優の横顔を映したショットを見てその映画で起きてきたこと。また、彼女が演じたすべての役柄を想起してしまう。そんなことがあるかもしれない。そういうショットがある。物語上の意味から解き放たれて、彼女そのものの素面がそのショットに宿っている。映画という媒体だけを信頼して、ただそこに存在するだけのショット。そうそれが映画であると一応の理解としておこうか。

ただ、自分でいうのもなんだが、それは映画”的”とは違うのではないか。そして、これらのショットは、個人の「感覚」によっても左右されてしまうことだ。何か煮え切らない。別の視点で映画を考えてみよう。

そう、例えば個別の演出。例えば、やたらと画面占有時間の長いトイレットペーパーは、両手をふさぐ機能を発揮しているが、それはトイレットペーパーではなくてはならないといったことではない。トイレットペーパーは手から零れ落ちてコロコロと転がるべきだろうし、ふたりの履くジャックパーセルは意味ばかり内包していて、劇的な演出に携わってはいない。猫はその跳躍力(野生のちから)を発揮することなく、思い出の一部としてしか存在できていない。それとなんだあの最後の「粋です」といった手の振り方は(これはただの文句だ)。

しかし、これらの指摘をしたところで映画として公開されているのだから、本作は映画ではある。ではもっと簡単に「映画的」を考える。それは映画の引用だ。ここで映画をご覧になった方々には、菅田将暉有村架純が別れ話をするファミレスでのシーンを思い出してもらいたい。

友人の結婚式が終わったあと、観覧車にのったりカラオケで熱唱したり、付き合いたて当時のような楽しい時間を共有する。そして付き合う前から通っていたジョナサンについて、将来の話(または別れ話)をしていていると、ふたりがよく座っていた席に偶然その日、同じライヴで一緒になった付き合う前の男女が現れる。一度は、菅田の説得で「結婚」といった言葉を思い浮かべるふたりであったが、そのカップルにはふたりが無くしてしまったお互いを思いやる(または思う)心があることに気付かされる。まるで、あの時の自分のように、会うだけで楽しかった。話すだけで楽しかった、そう、もう二度と戻ってこないあのときの自分たち。そのふたりの会話は過去の自分たちを思い出させるようだし、履いているのはジャックパーセルだった。靴に関しては、こうした演出がされているのであるが、それは蓮實重彦がいうような解放のショットではないだろう。ただそれは意味として、あくまでもその映画の物語からは逃れられないアイテムとしての機能である。

またこのシーンはロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』(1954)に影響を受けているだろう。『イタリア旅行』は結婚8年にして倦怠期の夫婦(ジョージ・サンダースとイングリッド・バーグマン)が、叔父の遺産である別荘を売るためにナポリに車で向かう。ふたりで出かけているのに夫はすかさず女性と話しているし、雰囲気は悪くなるばかり。最終的に「離婚だ!」となるのだが、強引にポンペイの発掘現場に連れて行かれ、夫婦と見られる白骨死体が抱き合いながら発掘される現場を目撃する。ここで、イングリッド・バーグマンがショックを受け、その場から席を外し号泣してしまう。この作品は夫婦仲が戻ることになるのだが、このイングリッド・バーグマンが泣いて席を外す。そしてジョージ・サンダースが追いかける。これらの行動は、有村架純が号泣しながらファミレスの外に出てしまう。そして菅田将暉が追いかけていく、といった行動と同じである。また、『花束みたいな恋をした』では付き合う前の自分たちをダブらせる若い子たちが出てきたが、『イタリア旅行』では白骨死体である。どちらも、今の自分たちにはないものを持った存在として現れている。

さて、映画を引用したことで「映画的」になるのだろうか。映画的という言葉は別の映像媒体(テレビ、CM、ミュージックビデオ等)「的」であることを否定できるのであろうか。映画はフィクション=嘘、なので私はよく嘘であること、嘘みたいな出来事が映画的である、といったことを書いていたりする。それが何年だか、映画を見ていて思ったことだ。でもそれは、映画のタイトルが示すように「みたいな」ものなのだろう。

映画というテクノロジー経験 (視覚文化叢書)

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  • 作者:長谷 正人
  • 発売日: 2010/11/22
  • メディア: 単行本
 
群像 2021年 02 月号 [雑誌]

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  • 発売日: 2021/01/07
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イタリア旅行 Blu-ray

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*1:日本のハードコアパンクメタルコア バンド。

2020年TL経由で知った音楽——GEZAN『狂(KLUE)』のメタル感について

私も老害化したのか、「さいきんの子達って、どうやって音楽知るんだろう?」と思うことが多いのだけど、そりゃあ今ではSNSがあるし、インターネットの彼方此方に情報は氾濫しているので、聴く音楽に困るってこともないのだろうと一応の結論をつけている。というのも、自分も知らず知らずにTwitterのタイムライン(TL)に影響を受けて音楽を知ることは多いからだ。

多分、私はTwitterで以下の割合でフォローしている。

  1. 音楽
  2. アニメ
  3. 映画

そのなかでも、ファン/ライター/批評家/botなど、さらに枝分かれしている。

私自身はコンテンツになる元気もなければ、アカウントを分けることさえめんどくさいと思うタイプなので、すべての趣味や一般的なパーソリティに触れることもこちらのアカウントでインプット/アウトプットしている。フォローする/しないはかなり恣意的で、会ったことがある、会ったことがある人の知人・友人、点で見て琴線にふれる何かを投稿していたとき、といったようなもの。

11年?Twitterをやっていると、新規でコミュニケーション——そもそもそこまで積極的にリプ飛ばさないが——を増やそうとするのもめんどくさい…となってしまい、なかなか新規にフォローする機会もない。自分は感じていないが、ある種のSNS疲れではないか? とも思ったりする。そもそもコミュニケーションに長けた人間ではないし、純粋に「つぶやく」ツールとして使っているので、どうでもいいかなんて。

ただそれだけ長くやっていると、タイムラインに文脈が発生しなくなる。それは、「音楽」の話題ひとつとっても、音楽メインの話をしている人だけのつぶやきだけではないからだ。例えば、映画のことをメインにつぶやくアカウントの人々では、HIPHOPの話がよく出てきたりする。それだけ、2010年代にはHIPHOPが市民権を得たということだろうし、アンダーグラウンドな音楽を好む人たちはアイドルの話をしていたりと、彼方此方にクロスオーバーしている。

コロナ禍において、現場(ライヴハウス)での誤配が起きにくくなると危惧していたが、Twitterでは今でも無数の誤配が日常に存在していると認識させられる。人間ひとりのカバー範囲には限界があるので、この「点」で捉えていく…ということを続けていても実りある知識は蓄積しづらいだろう。もちろん、誰もが自分の思っていることをアウトプットするわけでもないし、ひとつの快楽として音楽を享受することは別に悪くもない。

さて、前置きが長くなってしまったが、GEZAN『狂(KLUE)』のメタル感についての話をしよう。

GEZANの存在を知ったのは、李氏さんあたりのtweetを見たのがきっかけだったと思う。TLで知った後、三秒後にはバンド名をSpotifyで検索して、10秒後には再生している。ブレードランナーもびっくりな世界ではないだろうか。しかし、2021年現在の当たり前の日常だ。

まず初めに自分の音楽興味範囲を示しておくと、ハードコアパンクデスメタル、パワーヴァイオレンス、グラインドコア、ゴアグラインド、スラッジコア、ドゥームデス、これらのクロスオーバーミュージック…をよく聴いている。2020年のベストは、記事の終わりに載せているので興味があったらどうぞ。

「GEZAN」と聞くと、名前のインスピレーションからメタルなのかな? と思っていたのだが、アルバムを試聴した結果、その印象がほとんど間違っているし、ある意味当たっている思わされた。イーヴィルなスラッシュメタルの文脈からいくと、人が赤い被り物(布巻いているだけだけど)被っているジャケットを見ると、「SODOMかよ!」こってなるでしょう。

In the Sign of Evil

In the Sign of Evil

  • アーティスト:Sodom
  • 発売日: 1998/06/30
  • メディア: CD
 

 ってのは冗談にしても、赤い巻物みたいなものはSpirit PossesionのST(2020)もそうだったし、赤い巻物流行ってんのか? って。ただ、実際にポスト・ブラックメタルポスト・ハードコアから影響受けたようなパートもあったり、前作『Silence Will Speak』なんて1曲目から、シャウトとポコポコしたドラムの煽りから始まってブラックメタルかよ? となる。全体として聴くと、envyとか轟音系のバンドから影響受けてるのかなー。『ヘドバンvol.28』で2020年メタル系アルバムベストでも選出している人がいるし、メタル味を感じてもいいのだろうと。

それとどこかポリティカル、ラディカルさってkillie*1とも通じるよな〜って思って、李氏さんの「声と革命—GEZAN「狂(KLUE)」論—」(『痙攣』掲載)を読んでいて、全感覚祭か〜と深くうなづいた。

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あと見事な曲の転調とか、轟音まざっているとVampillia*2とか(ジャンル違うけど)。ロック経由していないけど、知っているアレコレに通じているとアガる。それと、どこかポップさも持ち合わせているのが素晴らしい。いいアルバムはどこかにポップさを感じるってのが、共通してある(もちろんなくてもいい)。例えば、SPAZZ*3の名盤3rd『Crush Kill Destroy』にだってパワーヴァイオレンスながら、ポップさを感じるし、それって、つまりスラスラ(SLIGHT SLAPPERS)*4がずっと体現していること。それとマイクパットンもあるのかな。

まとめると、GEZANのメタル感って無数に枝分かれしたヘヴィメタルとか、ハードコアパンクなどのジャンルが、クロスオーバーしながら、ひとつの音として戻ってくることによって『狂(KLUE)』が誕生しているのかも。私が聴いているのも交通事故的な出会いだし、TL誤配のなせる部分にも由来するようにも思える。先に書いたように今の音楽って、SNSやインターネット上で流れてきたバンド名を、サブスクや(違法だけど)youtubeで聴けるので、音楽雑誌や初期インターネットを流行っていた時代よりもさらに誤配の範囲が広がっている。私はロックをすっ飛ばしているけど、メタル/ヴィジュアル系⇨ハードコアっていう音楽遍歴をたどっているので、ある程度、共通的な要素の連なりで音楽を聴いている旧来型の人間なのだと思う。そんな、旧来型な人間が、現代的な誤配で本作を聴くことになったので、クリティカルなことは何もいえないけど、美しい音楽だし、単純にカッコいいと思った。出会いはいつも唐突にやってくるものである。

全体の話はしたところで個別に楽曲感想。まず、#01「狂」私のめちゃくちゃ浅いHIPHOP知識(というか経験)なので間違いだったらごめんなさいだけど、日本語HIPHOP的な語り口で始まり、そのアングラ感から「カッケー」と厨二のガキのようにぶちアガる。ベースで引っ張っていき、だだっ広い世界が目に浮かぶようなギターのロングサスティーン。そして、曲調がグッと変わる#2「EXTACY」急に、まるで民族音楽のようなサウンドに。ただ、あくまでもベース主体とギターの役割はほとんど変わっていない。ただ、リズムが民族っぽい。#3「replicant」では前のめりにスピードがまし、一瞬の言葉が導入される、#4「Human Rebelion」から#5「AGEHAで歪んだギターが主張しだして、メロディを奏でる。うねり、うねられまくった音楽は到達点まで最初の達する。#6「Soul Material」では急激にテンポを落として、楽器のような役割をしていたボーカルがメロディを歌い出す。急にキャッチーというか、ポップな楽曲になるので序盤との落差がすごいが、ここまでの転調豊かな楽曲の繋がりから、とても美しく聞こえる。「はい!ここで待った!」と言われているかのような、#7「訓告」でまたダーティーな世界観へ。声はまた楽器としての役割へ回帰する。ギターはサウンドスケープを描くように。そして、また爆裂サウンド#9「赤曜日」ギターの刻みから、ドラムのタム回しとシャウトがポスト・ブラックメタルポスト・ハードコアっぽい。「神様を殺せ」って歌詞が聞こえてくるのが、これまたヘヴィメタル感もあるよね。次の「Free Refugees」のドラム?太鼓? のポコポコした音色が心地いい。そして、ギターノイズ+シャウトで始まる名曲#11「東京」これが、sadsの『TOKYO』ぶりにトーキョーを意識した楽曲になっているのではないか(個人的に!)。「想像してよ、TOKYO!(狂った街)」。ここまでイビツな楽曲でアゲてから、最後にチルっていく#13「I」実にお見事しかいいようのない幕の閉め方で、GEZANのポテンシャルに触れることができた。

GEZANこのあたり、水谷さん(3LA)あたりにもお話を伺ってみたいなーとか思った。それと、本当はTHE NOVEMBERSやHAEMORRHAGEのことも書こうと思ったんだど、もう書けない!また今度ということで〜(多分)。

paranoid3333333.hatenablog.com

 

狂(KLUE)

狂(KLUE)

  • アーティスト:GEZAN
  • 発売日: 2020/01/29
  • メディア: CD
 
SILENCE WILL SPEAK

SILENCE WILL SPEAK

  • アーティスト:GEZAN
  • 発売日: 2020/06/24
  • メディア: CD
 

*1:日本のハードコアバンド。killieの音楽性を一言で言い表すのは困難であるが、カオティック、激情ハードコアあたりの文脈(例えばenvy)で捉えられる機会が多い。

*2:2005年結成。関西に拠点を置くブルータルオーケストラバンド。

*3:1992年結成、アメリカのパワーヴァイオレンス・トリオSPAZZ。パワーヴァイオレンスの教科書みたいな存在。

*4:1994年結成、東京パワーヴァイオレンス。