つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーションのこと

森崎東『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』(1985)

「ただいま!」

森崎東の映画にとって長年家を離れていた子供が家に帰ってくる。まるで昨日もそこに住んでいたかのように自然に。『喜劇 女は男のふるさとヨ』(1971)では、血が通っていない父/子でさえも、「姉ちゃんが帰ってきたって!」と大騒ぎとなる。家や仕事がなんであれ、彼の目線はいつも日陰者に寄り添うような位置にある。

『生きているうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』タイトルからわかるように「生/死」にまつわる映画である。しかしこの映画ではまず、「死」という概念が二回ひっくり返される。一度目は倍賞美津子がヤクザな仕事から逃げてきた友達を探して家にいったときに、「嘘」をつかれて必死になって墓地へ向かうも彼女は生きていた。二回目はその生きていた彼女が結婚するといって、死んだとされる彼の墓地を掘り出したとき。賠償がとうとう気でも狂ったのか? それとも本当に可哀想なだけなのであろうか? と怪訝そうな顔で掘り返している様子を見ていると、まるでゾンビのように蘇るではないか。しかし、二度否定された「死」は三度目の正直として立ち現れる。射殺されるショット、着物が舞って、鳥が舞って、そして天気雨が降る。つきまとう「三」という数字は、冒頭教師を連行して身代金を要求する「三人」でもあるし、倍賞美津子の彼を含め「三人」の死。そして、ヤクザおよび警官を入れて敵もみな「三人」死ぬ。「三」は現実の数字として立ち現れる。二回まではまるで奇跡が起こったような瞬間が続く。例えば「二回」の天気雨。教師は「二回」賠償と床に着くも、三回目は船上で生徒たち(=倫理)に囲まれて悪夢から目を冷ます。賠償の彼との絡みは教師に窃視されており、それは賠償と教師の絡みもまた彼に窃視される。ここでは奇跡のようなできごとと極めて現実的なできごとが、絡み合い、幾度となくひっくり返されることで、悲劇が喜劇にもなっていく。

冒頭まるで『ションベン・ライダー』(1983)のようなカーアクション*1も、言語(理由)の前に運動があり、その理由は後になって判明する。娘が妊娠した! 出て行く! となって出て行っても、まるで何事もなかったかのように次に娘が出てくる際は夜の仕事を全うしている。賠償もまるで何事もなかったかのように接する。船が出航するも港にたどり着かないのは映画につきものであるし、対岸側に見える原発施設に関しても、彼岸/此岸の対比を連想させ映画を転がしていくものとして機能する。

ラストショットで賠償がさっと画面から消える瞬間(実際にはブレている)で幕が閉じたとき、昨年見た『マチネの終わり』を想起した。 「会いたい、会いたい」という賠償美津子と原田秀雄の姿は、他の森崎東作品を見てもきっと思い出してしまうだろう。森崎東の映画は彼の映画の中でずっと循環していく。これは忘れられない——。

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*1:まるで長回しはしてやるものか、と思うくらい少し長めのカット後にすっとカットを割っている。ぼーっとしているとカットを割ったか見逃すくらい自然に挟んでいる。また車の周りで倒れる人を割って挿入し、リアクションのショットと映像のメリハリの両方を獲得できている。これは警官が賠償が小屋に入る瞬間を見つけて、次の瞬間すでにドアを閉めるショットを挟んでいたように映像にメリハリがつくショットであろう。このあたりは『時代屋の女房』で到達点に達しているように思う。