つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーション、音楽のこと

安里麻里『アンダー・ユア・ベッド』(2019)

私はこの作品に対して批評的にどう優れているだとか、映画原理主義的にどうだとか到底いえない。それでも言葉にしなければならないと思ったのは、この真摯な映画に感動してしまったからで、その痕跡を残しておきたかったからだ。

おそらく『アンダー・ユア・ベッド』(2019)安里麻里の代表作になるだろう。そうはいってもシリーズ3作目から監督を担当した『リアル鬼ごっこ』(安里は3,4,5(2012)を担当)や『トワイライトシンドローム デッドゴーランド』(2008)の活劇性や不気味なものの表象だけに落ちない『呪怨 黒い少女』(2009)を抜きに考えることは決してできない。「映画」に拘るならばそれらの方が見所があるかもしれない。しかし『アンダー・ユア・ベッド』に出てくる孤独をかかえた、彼/彼女らのひたむきさには胸を打たれるしかなかった。人生で初めて名前を呼ばれる——おそらく名前を呼ばれないという経験はありえないが、彼の中で本当の意味で「名前」を呼ばれたのはあの時が初めてだった——彼の驚いた表情。そして、それがごく自然なことだと当たり前に受け止め、当たり前に教科書を見せる彼女。たった一回珈琲を飲んだだけ。そのただの一回が彼の中に彼女の痕跡を残してしまうし、10年以上経った現在においても彼女を思い続ける。

彼が行った行為は客観的に見て気持ちの悪い行為かもしれない。それは後々に彼女もそういっているのであるが、客観とは違った環境下ではそれはとても切り捨てられないものとなる。その思いが強くなればなるほど妄想は物語を帯びてくるし、それはあの『恐怖分子』(1986)の引用からいっても当然なのかもしれない。作品の中で彼/彼女たちは確かに生きていて、それは否定しようのない事実だ。だからといってキャラクターに感情移入するのではなくて、キャラクターをひたむきに捉えるカメラに感情移入してしまうのだ。最後に名前を呼ばれた彼と呼んだ彼女との切り返し。今呼んだ彼女と10年以上前に呼ばれた彼との切り返しに見えてしまった。もちろん、今の彼女と今の彼との切り返しショットであるのだろうけれど、昔の彼と今の彼女との切り返しショットともいえないだろうか。時間が思い出の中で止まっていた彼と、結婚して子供もいる時間が進んだ彼女とのショット。はたまた地獄から救ってくれた(時間が止まっていた)彼との——。

彼や彼女以外のキャラクターにも血が通っている。DVする夫も、アロワナ君も孤独をかかえた人物だ。それらに対してまっすぐと真摯な態度でぶつかる作品に涙してしまう。あるはずなのにないものとして処理されたり、あったはずの痕跡をたどることがどれだけつらいか。これは、まぎれもない映画なのだろう。

アンダー・ユア・ベッド (角川ホラー文庫)

アンダー・ユア・ベッド (角川ホラー文庫)

 
リアル鬼ごっこ3

リアル鬼ごっこ3

 
リアル鬼ごっこ4

リアル鬼ごっこ4

 
リアル鬼ごっこ5

リアル鬼ごっこ5

 
呪怨 黒い少女

呪怨 黒い少女

 

アニメクリティーク刊行会『アニクリvol.3.5 特集〈アニメにおける音楽/響け!ユーフォニアム+号〉』及び『アニクリvol.7s 特集 〈アニメにおけるバグの表象 作画崩壊/幽霊の住処〉』への寄稿について #C96 #夏コミ

夏がやってきました。ということで、夏コミ関連の告知です。
いつもお世話になっている、アニメクリティーク刊行会(anime critique)の新刊に拙稿を2件掲載頂いています。 8月11日(日)31bでの発刊とのことです。

◆『アニクリvol.3.5 特集 アニメにおける音楽』

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nag-nay.hatenablog.com

本号では〈アニメにおける音楽〉が主題になっており、今回はコラム枠で寄稿しました。『アニメーション作品における音楽の多様な表現方法について』というもので、タイトル通りになりますが、アニメーションにおける音楽の使用事例を数作品の具体例をあげて紹介するといったコラムです。
短編アニメーションが中心となっていますが、ネット環境化でも比較的見ることが容易な作品を選んだつもりです。扱った主な作品は以下の通り。 


◆『アニクリvol.7s 特集 アニメにおけるバグの表象〈作画崩壊/幽霊の住処〉』

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nag-nay.hatenablog.com

本号へは『〈アニメ〉における「バグ」の表象について』といった論考を寄稿しております。まず、映像作品におけるバグとはなんだったのか、ということをJホラーにおける「幽霊」を「バグ」に見立て、ではアニメ(脚注:本論では作品そのものを〈アニメ〉とし、動きそのものの現象などを〈アニメーション〉と記しています。)におけるバグとは? ということを具体的な作品を例に展開しました。今回は編集段階でNag.さん他にもunuboredaさんにアドバイスをして頂いたりと、至れり尽くせりでしたので、初稿よりもよくなったと思います。
もともとは都市空間と「バグ(=幽霊)」なるものを書こうと思ったのですが、実力不足で纏めきれず範囲を絞って書きました。ただ「都市空間」なるものは『天気の子』
でもそうでしたが、アニメにおいても重要なことだと思っていて、いつか言語化できればと思っています。また、クレイアニメーションCGアニメーションの差異等今後の課題もあり頑張っていきたいなと。

以下、文章で触れた主な作品です。

なかなか触れるのも辛いのではありますが、先日の事件で「表現する」といったことについて不安になった人がいると思います。それは表現者だけではなく、私のようなアニメファンもそうでしょう。実際に私もそうでした。いつまでも元気がないのもどうかと思い、無理矢理自分を焚き付けて『天気の子』を見に行きましたが、エンドクレジットを見ると事件を思い出してどうしても辛いものがあった。

本来であればアニクリに例の事件のコメントをするべきだったのですが、ひとりの鑑賞者とした立場で人様に対して何が言えるのかと思った際に何も書けないなとなってしまいました。だから今回とても「個人的」なこととして簡単に触れます。 あれからテレビアニメをまだ見ることから逃げてしまっているのですが、それでも自分が好きなものを直視できないといったことにはしたくないし、今までと変わらずアニメを受け入れていきたい。「好きでいることは何よりも強いこと」だと、少しずつでもリハビリしていければいいと思っています。また、3.5号の売上は京都アニメーションに寄付されるそうです。機会があればぜひに手にとって貰えると幸いです。たくさんの面白い論考が載っているので。

最後になりますが、夏コミはとても暑いと思いますので十分な水分補給して体調に気をつけて楽しまれてください。では、良きお盆休みを。

フレデリック・ワイズマン『エクス・リブリス ニューヨーク公共図書館 Ex Libris: The New York Public Library』(2017)の構造について

3時間を超える作品であっても、毎回新作が公開されると駆けつけてしまうフレデリック・ワイズマン。長いと思っていても見れてしまうのは彼の作るリズムにあるのだろう。『ニューヨーク公共図書館』のランタイムは205分だ。決して短くない。今回は本作の構造について書いていく。

◆オープニング

黒バックの画面にオープニングクレジットが表示される。オフスクリーンでは街の喧騒が聞こえる。クレジットが終わるとき、ワイズマン映画ならおなじみの主題に関わる場所(場所の周りやそれ自体)を、小刻みに(ショットを)連ねる。そして本題に入り、図書館内で公演している人物を長めのショットで映し、聴講者を短めのショットで5-6人リズミカルに映す。そしてまた登壇者のショット——といったようにこのやりとりを数回繰り返す。本作では本館や分館といった図書館を行き来するが、ほとんどのやり取りはこの形式で進んでいく。これを記憶されたい。

上述したとおり、本作では本館、分館、分館、本館、分館、といったように様々な場所をワンシーン(ワンカットではない)毎に撮影されている。ドキュメンタリー映画にしてみればわりとポピュラーな形式ではあるのである。しかし、ワイズマンの映画では3時間、4時間といったランタイムは決して珍しくない。それでも停滞することなく、見れてしまうのはもちろん題材の興味深さもあるかもしれないが、体感時間的に身体が楽だということがある。彼の映画は(『ボクシング・ジム』あたりが示唆的)、リズムがとてもいい。決してテンポが速い、のではなくリズムによって身体の感覚が制御されているといったほうが正しいかもしれない。

◆移動について

本館-分館等の移動に関しては、ワンシーンが終わった後、カメラはその場所の外に移りオープニングクレジット後のショットのように小刻みに数ショット連ねる。ここでワイズマンの優れているところは、次のシーンで子供たちが遊ぶ施設だった場合に、外でその施設を待っている人々(乳母車を押す母親)のショットを挿入するなど、場所から場所へのつなぎがスムーズにされているところだ。まず丁寧な作りになっていると思う。

しかし、それが絶対である、とはワイズマンの映画では思わないほうがいいかもしれない。『動物園』での性格の悪さ……(はさておいて)、「ドキュメンタリー」といえど、もちろん編集されていないということはなく、本館から分館への移動のときに、公演の音が聞こえながら次のショットに移行するなど、明らかな編集がされている。そもそも登壇者/聴講者の切返しが成立している時点で、編集がされていると認識してもいいかもしれない。

◆小休憩

上述した数々のシーンの流れとショット構成、リズムの形成、といえど流石に205分は長い。そこでワイズマンは何をするかというと、一旦休憩に入る。もちろん、休憩といっても本当に休憩するのではなく、リズムを変えるのだ。本作と似た構成になっている『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』(2015)であれば、おばさんが洗濯物を乾燥機に次々と放り投げるシーンや、鳥をさばくシーンがそれにあたる。本作であれば、図書館での返却から各拠点へ運ぶシーンのそれだろう。ベルトコンベアがガタガタガタと音を立てて高速で動きながら、本を仕分けしていく。図書館の仕事それ自体を運動で見せる素晴らしい休憩のショットだといっていい。会話もないことがまた重要である。会話構成で進められていた映画が、純粋な運動にシフトし頭の切り替えができる。

◆終わりに

先にも書いたように編集を感じるのは、ロケーションにも関係するかもしれないが、公演する会場によってもマイクを使っていると微妙にズレたり、生っぽく聞こえてしまったり、録音状況にもよって響き方がそれぞれ違うことだ。そういったロケーションごとの臨場感(のイメージ)を表象するといったことも、意図的ではないのかもしれないが、クリティカルに鑑賞者に影響を与える点だろう。

「音」に関わる点でいえば、ラストショットは示唆的で画面内で流れ出した音楽がそのままエンドクレジットに流れていくといった手法。それこそ別に珍しい演出ではないが、オープニングで黒バックのクレジットを表示してオフスクリーンで街の音(録音)を流すといった方法を取っていることからも、始まりと終わりがちょうど対応する関係で作られている。ワイズマンの映画は常に反復、それと外しで緻密に計算されて作られているのだろう。

最後ではあるが、本作は『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』の変奏のようなもので、主題やショット構成はすごく似ているだろう。今年中に『大学—At Berkeley』(2013)でも鑑賞してもう少しワイズマンについて考えていきたいと思っている。

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