つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーションのこと

ジョン・フォード『ウィリーが凱旋するとき』(1950)

オープニング音楽を演奏し終わったところで「戦争だ!日本が真珠湾に攻撃をしかけてきた!」と報告が入る。ウィリーは徴兵され運転は苦手だが、射撃手としては抜群の成績を残し、いざ戦争に! と意気込むもなかなか戦場に派遣されない。基地が地元だったこともあり、はじめは喜ばれていたが、いつまでたっても戦場へ出向かない彼を町の人々は臆病者と罵ることになる。ここでウィリーは上官に対して何度も戦場へ向かいたい旨を報告するが、「お前は教官として優秀だ」と言われ何度も阻まれることになる。おまけに一瞬呼び止められ「昇進、善行賞をやる」と天丼ネタを3回も繰り返すも、彼の要求は阻まれ続ける。『ウィリーが凱旋するとき』ではウィリーの「英雄になりたい」といった願望がこのように何度も阻まれ、要求が彼が望む形では通ることがない。戦場に向かう兵士が一名盲腸で欠員となり、思わぬトラブルといった形で戦場へ向かうことになるが、彼の家族や彼女はさすがにその話を信じてくれなかったりする(最後は信じるが)。そして彼女との雰囲気のある別れもドアの前で3回繰り返し、4回目のときに「ゴツン」とドアに頭をぶつける。

そしていざ戦場に向かう、と思いきや、濃霧やタイミングなどのトラブルにより、目的地にたどり着けず、戦闘機を捨てることになるが、ウィリーは長旅で眠ってしまい、仲間が脱出したにもかかわらず、ひとり取り残されてしまう。取り残されてしまったシーンでは外に向かって飛び出ている銃がグラグラと揺れていたり、ギリギリまで地表が見える位置までに高度が落ちていたりと「誰もいない」ことがスマートに演出されている。そしてひとり脱出を図るも、木に絡まってしまい、やっとの思いで降り立ったと思えば、フランス人に捕まってしまう。ドイツ軍に捕まりそうになるが、偽装結婚してなんとか事なきを得る。この時彼はワインをたらふく飲んで酔っ払いとなる。そこでドイツ軍の秘密を託され、フランスからドーバー海峡を渡って英国へ。船の中で船酔いと勘違いされ、ラム酒を勧められ無理やりに飲むことになる。酔っぱらった状態で英国についたと思えば、ここでも酒を勧められ(スコッチだったか?)無理やり飲まされる。しかも、同じ話を3回も繰り返し(会話の中では7回目になっていた)説明する羽目となり、彼は酔っ払い+疲労で眠りたい、といった状態に。

しかしそこでもウィリーの要求は通らない。今度はワシントンへ飛び、また説明と酒(ここではバーボンだったかな)を勧められ、彼はヘトヘトに。やっと解放されたと思ったら何を勘違いされたのか精神科に連れて行かれ、そこを飛び出しなんとか地元へ帰還。彼がこの町を出て4日しか立っていないという恐ろしさ。彼は4日でフランスから英国、ワシントンそして地元に戻ってきた。そして彼は実家に帰るもミルクを勧められるが、なぜかそこに酒を入れられてバタンキュー。天丼ネタにさらに積み重ねる反復に次ぐ反復の連続。そして彼の功績がやっと認められ、大統領から表彰されることになる。ここで映画は終わるが、最後に彼はいいやつだな「善行賞やろう」とここでもネタを挟んでくるクレイジーさ。とにかく彼が要求したことが何もかも上手くいっていないにもかかわらず、英雄になってしまったのだ。彼は銃を撃つことなく、ものすごい速度で巻き込まれるだけの存在だ。そこに個人の意思はなく、ひたすらに意識を失って(実際に酒に酔って)気がつけば、という。それと犬のもからかわれるのが最高に面白かった。

神代辰巳『死角関係 隣人夫婦男女四人のからみ合い』(1987)

シネマヴェーラの神代特集で彼の手がけた火サスを見た。ところで火サスといえば先日見たcuntsがオープニングで火カスのテーマソングを使っていたなーと思いつつ、「じゃじゃじゃっじゃーーーーん」と音楽が劇場を流れ始める。そしてもうひとつ思い出すのであれば、SEX MACHINEGUNSの『サスペンス劇場』だろう。曲自体はメタリカよろしくなリフ(ジューダスプリーストでもあるか)にハイトーンボーカルそれにパンサーの超絶ギターソロ。そしてどうでもいいけど、このギャグ線なMV最高でしかない。間奏でのスローモーションが自前スローモーションという…とどうでもいい話をしすぎたので火サスの話に戻るとする。しばらく映画を見ていないとどうでもいいことばかり書いてしまう。しかもそもそもこれはドラマ枠だった。カテゴリーエラー。(以下ネタバレ全開)

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これ、まずすごいのが戸川純が出ているのにやたらとまともな人間に見えることだろう。これが誰が見てもそう思うに違いない。森本レオなんて通常通り、酒井和歌子があまりにもキレすぎている。同じ役者でもこの人と共演してたら本当に殺されるのではないかと思うんじゃないか? 物語はそれこそ安っぽいドラマにありそうなものと同じであり、仲のいい隣人夫婦の一組の内、酒井和歌子の旦那さんが人殺し疑惑で警察に捕まり、そのうちに酒井和歌子が狂ってしまう。森本レオ戸川純は彼女の助けに入るのだけど、実は森本レオが真犯人だった——といったもの。

何がすごいかといえばドラマといった枠内にありながらも、スクリーン内/外が意識され演出されていることだろう。冒頭殺人事件があった現場で捜査し、警察が階段を降りていくと雷が鳴り響く。次のカットで別シーン(酒井和歌子家)に切り替わり、ここではすでに豪雨になっている。夫が殺人事件の重要参考人として、警察に連れて行かれる時もバケツをひっくり返したような雨が降っている。そしてビクビクしながら酒井和歌子が待っていると交番から電話が入り、夫を迎えに外に出かける。彼女が交番にたどり着くと先ほどまでバケツをひっくり返すほどの大雨が降っていたのに、ここではすでに路面も乾いており、何事もなかったかのようである。

これは恐らく室内がスタジオで交番およびその周辺がロケーションによる撮影だったのではないだろうか。そして、この後に酒井和歌子が外に傘をさして干すシーンがインサートされている。画面内で確認できる豪雨は夫が警察に連れて行かれるこのシーンのみであるが、傘を干すシーンはもう一度出てくる。恐らく予算上の関係で豪雨を撮ることが困難だったと推測されるが、その割に雷が鳴るシーンが数度出てくるし、なぜか2回目の傘を干すシーンがインサートされる。冒頭の豪雨は間違いなくこれから起こる不穏な雰囲気の演出。その後も同じような演出には違いないが、酒井和歌子の気の狂い方と順応しているような気がしてならない。壊れていく関係性を予見しているようなシーンであろう。2回目の傘を干すシーンは抜いてもいいかもしれないが、不気味な雰囲気を演出できているので肯定する。

ロマンポルノでは絡みが停滞となってしまうので。神代の映画では絡みのシーンでやたらと登場人物がわけのわからないほどの動きを見せる。ドラマ枠にもかかわらず、酒井和歌子と息子がプロレスをするシーンではとてもびっくりするのであるが、警察署での酒井和歌子の動き方や、森本レオとの対峙シーンなど室内での動線が豊かで。それに、外からありえないほど石を投げられガラスが割れてしまったり、それにブチ切れた酒井和歌子ナチュラルにショットガンを手に取り、外に向かって撃とうするシーンなんかは本当にやばい。やばいけど、雷同様に丁寧に画面の外を意識させる演出だったのだろう。ドラマでも画面の外まで広々と使える。それに新聞記者だ。家の中に入れてくれないと思えば、台所の窓から顔を出したり、勝手に家の中に侵入したり、やりたい放題。さすがにここまでの状況になれば気が狂うのも当たり前かと思うほど。

結末は思った通りというか、これで夫婦間を修復できたらそれもそれで危なくないか? と思うほどなのだが、予想を裏切らないバッドエンドで最高に面白かった。これDVD化されているのだろうか。

『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』についての取りとめもない雑記

音の視覚化について試みたと考えられる『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(2005)では、レミング病と呼ばれる自殺病が流行った世界を描いている。言うなれば少し先の未来、大雑把にいえばSF映画にあたるのであるが、再見して思ったのはやっぱり「西部劇」であることだろう。だだっ広い世界に岡田茉莉子が運営するペンション、そして外部からやってきた殺し屋たち。ここでの殺し屋といっても、その職業は「探偵」であるし、宮崎あおいは標的から逃れてきた娘といっただろうか。それはまるで「西部劇」を現代に落とし込んだかのような人物配置であり、浅野忠信中原昌也が作るのノイズミュージックは、荒野に吹き荒れる風のような印象を受けないだろうか。

音の視覚化と描いてみたが、果たして音は本当に視覚化できるのであろうか。浅野と中原は音をサンプリングして自らの音楽(ノイズ)に作り直している。この辺りは、スコリモフスキーの『ザ・シャウト』あたりを連想させる引用に見られる。彼らの音楽はレミング病を一時的に治療すると聞き探偵たちは彼らを訪ねてきたが、そのうちのひとり、中原はレミング病もしくは自分が希望し自殺してしまう。中原はレミング病だったということだが、さて、彼はレミング病で死んだのか、それとも自ら死のうと決めたのだろうか。また、レミング病と本当の自殺の境目はどこにあるのであろうか。映画は外部へ語りかける。生前の中原が言うには「治す気があるか、ないか」の違いらしい。

本作では先に書いたように音楽がまるで風のように吹き荒れている。彼らの作る音楽はサンプリングした音にエフェクター等を通して歪ませ大きくして鳴らしている。ここで風のように流れている音楽は、オフの音だろうか。それとも彼らが演奏している画面内/外の音だろうか。先日、『パレルモ・シューティング』(2008)を見ていた時に、映画で鳴っている音楽は、イヤホンで流れている音であり、見ていればわかるように彼の内面に関わる問題が大きく関わっていた。同時に『エリエリ(略』を思い出し、この世界のどこで音楽が鳴っているのであろうと。それと、中原がいなくなっても音楽はそこにあり続けることについて思い返す。浅野ひとりでは全く同じ音楽を再現することは不可能であろう。それはきっと多くのミュージシャンが常日頃思い悩むことであろうが、音楽の「再現」は本来不可能なことである。それはこの映画が「西部劇」を設定しなおして作られたことからも頷ける。

そういえば北九州サーガ(『EUREKA』(2000)はこれから)を見直していて、『Helpless』(1996)の90年代の空虚な感覚はどこか北野武の息吹を感じさせ(次作『チンピラ』(1996)を見れば明らかであろうが)、『サッド ヴァケイション』(2007)とはショットが全然違うな、と考えさせられる。そういえば物語面を見ていくと、この前見た『空の青さを知る人よ』も家族についても物語だなと思った。いい映画なのでぜひ、って何の雑記だったのだろうか。

エリ・エリ・レマ・サバクタニ 豪華版 2枚組 [DVD]

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EUREKA ユリイカ [DVD]

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サッド ヴァケイション

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