つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーションのこと

ジョシュ・クーリー『トイ・ストーリー4』

水路に流されそうになるラジコン(RC)を助けに共同で助けようとするおもちゃたち。なんとか捕まえ部屋に戻るが、スタンド照明とセットにされているボー・ピープがダンボールにしまわれて別の人のもとへ渡ってしまう。助けようとするウッディであるが、ボーは新たな持ち主の元に行こうと決意する。土砂降りの雨の中、玄関のライトが車の下で交わされるウッディとボーとの別れのシーンに彩を与える。

ここにピクサーのスタジオの強さが現れているだろう。この別れの切り返しショットを彩るライティングや、中盤のアンティークショップでシャンデリアによって反射される色鮮やかなライティング。そして最後のウッディとボーとの別れ改め決意のシーンのライティング。ここ最近遡ってみても、一瞬で空気を変えてしまうようなリッチなライティングは見たことがない。

おもちゃの物語としてというよりも、ウッディとボーの物語としてその他おもちゃが彼らを飾る装飾品として存在してしまっているのは、これまでの3作と比べてしまうと不器用さが際立ってしまうのかもしれないが、飾り物としての存在より「おもちゃ」としての一生を選ぶギャビーギャビーのひたむきさや、彼女の発見を運動として表現する姿勢には大変満足だった。

そして『トイ・ストーリー4』は運ばれる物語である。ボーがダンボールによって次の家庭へと運ばれる。ウッディたちはキャンピングカーによって移動式遊園地まで運ばれる。移動式遊園地は「無限の彼方へ」運ばれていく。そこに残ったウッディやボーも運ばれ続ける未来へ。所有されるおもちゃが誰かから誰かへ託される(『トイ・ストーリー3』)離別/出会いの主題から、「所有される」ことから永遠と繰り返される運ばれることを「選択する」といった人間らしい行動を彼/彼女らはする。この辺りは本シリーズの「人形性」から逸脱したようにも見えるが、彼/彼女らが移動式遊園地にいる限り「運ばれる」といった主題からは決して逃れることはないだろう。あくまでも人形たちは人の作った囲いの中で移動を繰り返していくのだ。それでも美しいのはピクサーのスタジオ総力を尽くした「光」の映画だったから。

安里麻里『アンダー・ユア・ベッド』(2019)

私はこの作品に対して批評的にどう優れているだとか、映画原理主義的にどうだとか到底いえない。それでも言葉にしなければならないと思ったのは、この真摯な映画に感動してしまったからで、その痕跡を残しておきたかったからだ。

おそらく『アンダー・ユア・ベッド』(2019)安里麻里の代表作になるだろう。そうはいってもシリーズ3作目から監督を担当した『リアル鬼ごっこ』(安里は3,4,5(2012)を担当)や『トワイライトシンドローム デッドゴーランド』(2008)の活劇性や不気味なものの表象だけに落ちない『呪怨 黒い少女』(2009)を抜きに考えることは決してできない。「映画」に拘るならばそれらの方が見所があるかもしれない。しかし『アンダー・ユア・ベッド』に出てくる孤独をかかえた、彼/彼女らのひたむきさには胸を打たれるしかなかった。人生で初めて名前を呼ばれる——おそらく名前を呼ばれないという経験はありえないが、彼の中で本当の意味で「名前」を呼ばれたのはあの時が初めてだった——彼の驚いた表情。そして、それがごく自然なことだと当たり前に受け止め、当たり前に教科書を見せる彼女。たった一回珈琲を飲んだだけ。そのただの一回が彼の中に彼女の痕跡を残してしまうし、10年以上経った現在においても彼女を思い続ける。

彼が行った行為は客観的に見て気持ちの悪い行為かもしれない。それは後々に彼女もそういっているのであるが、客観とは違った環境下ではそれはとても切り捨てられないものとなる。その思いが強くなればなるほど妄想は物語を帯びてくるし、それはあの『恐怖分子』(1986)の引用からいっても当然なのかもしれない。作品の中で彼/彼女たちは確かに生きていて、それは否定しようのない事実だ。だからといってキャラクターに感情移入するのではなくて、キャラクターをひたむきに捉えるカメラに感情移入してしまうのだ。最後に名前を呼ばれた彼と呼んだ彼女との切り返し。今呼んだ彼女と10年以上前に呼ばれた彼との切り返しに見えてしまった。もちろん、今の彼女と今の彼との切り返しショットであるのだろうけれど、昔の彼と今の彼女との切り返しショットともいえないだろうか。時間が思い出の中で止まっていた彼と、結婚して子供もいる時間が進んだ彼女とのショット。はたまた地獄から救ってくれた(時間が止まっていた)彼との——。

彼や彼女以外のキャラクターにも血が通っている。DVする夫も、アロワナ君も孤独をかかえた人物だ。それらに対してまっすぐと真摯な態度でぶつかる作品に涙してしまう。あるはずなのにないものとして処理されたり、あったはずの痕跡をたどることがどれだけつらいか。これは、まぎれもない映画なのだろう。

アンダー・ユア・ベッド (角川ホラー文庫)

アンダー・ユア・ベッド (角川ホラー文庫)

 
リアル鬼ごっこ3

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リアル鬼ごっこ4

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リアル鬼ごっこ5

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呪怨 黒い少女

呪怨 黒い少女

 

アニメクリティーク刊行会『アニクリvol.3.5 特集〈アニメにおける音楽/響け!ユーフォニアム+号〉』及び『アニクリvol.7s 特集 〈アニメにおけるバグの表象 作画崩壊/幽霊の住処〉』への寄稿について #C96 #夏コミ

夏がやってきました。ということで、夏コミ関連の告知です。
いつもお世話になっている、アニメクリティーク刊行会(anime critique)の新刊に拙稿を2件掲載頂いています。 8月11日(日)31bでの発刊とのことです。

◆『アニクリvol.3.5 特集 アニメにおける音楽』

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nag-nay.hatenablog.com

本号では〈アニメにおける音楽〉が主題になっており、今回はコラム枠で寄稿しました。『アニメーション作品における音楽の多様な表現方法について』というもので、タイトル通りになりますが、アニメーションにおける音楽の使用事例を数作品の具体例をあげて紹介するといったコラムです。
短編アニメーションが中心となっていますが、ネット環境化でも比較的見ることが容易な作品を選んだつもりです。扱った主な作品は以下の通り。 


◆『アニクリvol.7s 特集 アニメにおけるバグの表象〈作画崩壊/幽霊の住処〉』

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nag-nay.hatenablog.com

本号へは『〈アニメ〉における「バグ」の表象について』といった論考を寄稿しております。まず、映像作品におけるバグとはなんだったのか、ということをJホラーにおける「幽霊」を「バグ」に見立て、ではアニメ(脚注:本論では作品そのものを〈アニメ〉とし、動きそのものの現象などを〈アニメーション〉と記しています。)におけるバグとは? ということを具体的な作品を例に展開しました。今回は編集段階でNag.さん他にもunuboredaさんにアドバイスをして頂いたりと、至れり尽くせりでしたので、初稿よりもよくなったと思います。
もともとは都市空間と「バグ(=幽霊)」なるものを書こうと思ったのですが、実力不足で纏めきれず範囲を絞って書きました。ただ「都市空間」なるものは『天気の子』
でもそうでしたが、アニメにおいても重要なことだと思っていて、いつか言語化できればと思っています。また、クレイアニメーションCGアニメーションの差異等今後の課題もあり頑張っていきたいなと。

以下、文章で触れた主な作品です。

なかなか触れるのも辛いのではありますが、先日の事件で「表現する」といったことについて不安になった人がいると思います。それは表現者だけではなく、私のようなアニメファンもそうでしょう。実際に私もそうでした。いつまでも元気がないのもどうかと思い、無理矢理自分を焚き付けて『天気の子』を見に行きましたが、エンドクレジットを見ると事件を思い出してどうしても辛いものがあった。

本来であればアニクリに例の事件のコメントをするべきだったのですが、ひとりの鑑賞者とした立場で人様に対して何が言えるのかと思った際に何も書けないなとなってしまいました。だから今回とても「個人的」なこととして簡単に触れます。 あれからテレビアニメをまだ見ることから逃げてしまっているのですが、それでも自分が好きなものを直視できないといったことにはしたくないし、今までと変わらずアニメを受け入れていきたい。「好きでいることは何よりも強いこと」だと、少しずつでもリハビリしていければいいと思っています。また、3.5号の売上は京都アニメーションに寄付されるそうです。機会があればぜひに手にとって貰えると幸いです。たくさんの面白い論考が載っているので。

最後になりますが、夏コミはとても暑いと思いますので十分な水分補給して体調に気をつけて楽しまれてください。では、良きお盆休みを。