つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーションのこと

フレデリック・ワイズマン『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』

公開から一ヶ月経ってしまったこともあり快適な空間で鑑賞することができた。ワイズマンの新作は『ナショナル・ギャラリー英国の至宝』(2014)ぶりだったろうか、最近イメフォとアテネでやっていた特集上映には時間が合わなくて『動物園』(1993)しか見れなかったのだけど、『In Jackson Heights』(2015)これはなかなか面白かった。

ワイズマンの作品は最初の数ショットで主題をパッパパッと切り替えていくことをやっていると思うんだけど、本作もタイトル(黒バック)でオフから何やら街中の音がしている→街並みのショットで音の正体を提示するって流れで、「ジャクソンハイツ」がどんな街ってのが一目でわかるようなショットを挿入する。多民族が入り混じるジャクソンハイツでは十人十色って言葉が合うようにいろいろな色*1が無数に共存している。道中至る所に小さい商店が存在しているのが特徴的といえよう。

街並みをパッパっとカットしていってある特定の場所にカメラはとどまる。例えばLGBTの集会だったり、高齢者の集まりだったり、ユダヤ教だったり、ゴミ拾いボランティアだったり……といった具合に多民族の街であるジャクソンハイツの特徴である複数の共同体をカメラは捕らえていく。一見教養に溢れた映画に見えなくもないが、全然そんなこともなく、それだけ共同体がいながらも高齢者の集会では100歳(98歳だったかも)まで生きていて「もう生きるのが嫌だ」とか自殺とかヤバいワードが飛び出しているのに別の高齢者が「長寿命の秘訣ってなんなのよ?教えてよ」って会話が行われていてぶっ飛んでいる。きわめつけはお金があるなら誰か若い娘を雇って会話とかしなさいよ!っていうんだから頭がおかしい。

それに精肉店というのだろうか、鶏の首を切ってまだ息のある鶏を頭から丸い筒状のところにぶち込んで、そいつらを生茹でにして毛を剥いでってシーンをしつこく1秒も目を離すなといわんばかりに記録する。これにはわりと後半にある犬の毛や爪切りあたりに対応しているんだろうな。この辺りはこの前見た『動物園』を想起したけど、相変わらず性格が悪い(褒めてる)。筒から足をバタバタする鶏はジョルジュ・フランジュ『獣の血』(1949)の死ぬ寸前の羊のバタバタしているところを思い浮かべてしまう。

あと『ボクシング・ジム』(2010)じゃないけどおばさんが乾燥機(だったかな)に洗濯物を次々に放り込むシーンなんかはリズミカルでたまらなかったし、理由が明確に語られずに店の前でLGBT集会が声をあげてボイコットしているところは人間というより動物的瞬間を垣間見れてよかった。それと金持ち連中がジャクソンハイツを狙っている!と、集会を開いて「みんなはこの事実さえ知らないんだ」と議論に拍車をかけるのだけど後日それがどうなったのか語るわけでもないし、この辺りのあと腐れなさがワイズマンだよなーあくまでも撮影しているのはジャクソンハイツなんですって感じがいい。そして最後は街中を撮影して終わりと。3時間あったけど気づいたら3時間経っていたような感じ。少し物足りないくらいだったな。あと30分でちょうどいいかも。

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*1:ここでの色は肌の色以外にも服の色彩的な視覚情報が含まれる。

『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』1回目

数を数えるとき、1の次は2が一般的だろう。そして2の次は3であるし、3の次は4が待っている。1階の階段を上がると2階につくし、校庭を2回周れば2周目という。野球の試合を見ていると1回表、1回裏、2回表、3回裏、といったように続いていく。そのように私たちは数字を陸続きのように認識している。

さて、先日公開された『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』。このタイトルを見て違和感がないだろうか。例えば2017年に公開された『交響詩篇エウレカセブンハイエボリューション1』と比べると『ANEMONE』がついているとか。それも重要であるが、それよりもハイエボリューションの後に”2”がついていないということだ。1の次は2のはずなんだけど、2じゃない。どういうことか? 
『ハイエボ1』はレントン=記憶喪失者の語りによって映画が進行していき、レントンビームスというひとつの希望についての物語だったわけだけど、『ANEMONE』はエウレカになれなかったアネモネの物語であり、もうひとつのエウレカセブンないし、いうなればアネモネセブンなわけだ。メインになれなかったアネモネのあったかもしれない可能性の物語。

映画はANEMONEの世界からエウレカの世界にダイヴしていく大胆な構造。アネモネエウレカに接することで世界が書き換わる/塗り変わる。藤津亮太はこれを「垂直移動のイメージ」*1と呼ぶわけだけど、『ハイエボ1』があって『ハイエボ』があるというよりも、『ハイエボ1』もあるし『ハイエボ』もある。だから「PLAY BACK」で『ハイエボ1』で走っていたレントンと遭遇する。エウレカが「夢を見ちゃいけないの(?)」と嘆くようにすべてが夢物語のようなテクスチャで断片的な記憶と妄想が入り混じったカオス空間がスクリーンに立ち現れる。

『ハイエボ1』は記憶喪失者の物語だからナレーションによって時間軸の入れ子構造になっていたが、『ハイエボ』はもっとシンプルでこの世界のアネモネが違う世界にダイヴするといった構造。まるで磔にされたデューイ——十字イメージからキリストみたいな印象を受ける——がもうひとつの世界があることを示唆しているようにアネモネパラレルワールドというか並行世界を移動する。

前段でも触れたように藤津はダイヴするということやキービジュアルのイメージから「垂直移動のイメージ」と表現するんだけど、「夢を見ちゃいけないの(?)」というエウレカの発言もあるが、すべてが等価な世界だとして上下も何もないだろうと思っていて「垂直移動のイメージ」には少し懐疑的。確かに『ハイエボ1』の世界のすぐ隣に『ハイエボ』の世界があって、アネモネがそこへダイヴしていくといった構造をとると垂直に見えなくないが、もっと放射線のように広がったもの同士の世界ではないかと思う。諸事情あって『ハイエボ2』と謳っていなくて『ANEMONE』ってタイトルにしているらしいが、それだと余計に1があって2ではなくて、1もXもありうるみたいな。数字の話をしていくとゴダールかよって言いたくもなるが*2、シンプルに可能性についての物語なのではないだろうか。

あと今回の試みとしては京田知己監督のインタビューにもあるようにキャラクターをCGで描くことを実践している。映像的には違和感があるというか、どうしても私たちの慣れからするとノイズを感じる。もしわざと違和感を残していると考えたときにANEMONEの世界と映像表現が呼応しているように感じられるのも事実だ。世界に対して本当に自分(アネモネ)が存在しているのかが不安になるくらいにディストピアな世界が描かれているし、ダイヴを繰り返すことでそれまでと違った世界が目の前に訪れることになる。世界がおかしいのか、世界に対して自分がの方が異物なんではないだろうか? と思ってもおかしくはないだろう。それくらい世界の認識とキャラクターの認識がズレているし、視聴者もテレビシリーズ、ポケ虹、漫画、CR…などの複数の媒体が接続されたり切断されたりすることで固有のズレを味わうことになる。いわば世界のノイズとして、それを揺らがす存在として。

来年の『ハイエボ(3)』がどうなるかわからないが、1やANEMONEのように攻めた構造で終結してほしい。ということで、ANEMONEは傑作でしょう。

d.hatena.ne.jp

 

 

シネマの大義 廣瀬純映画論集

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*1:コラム | 映画『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』

*2:「1+1=3」や近年言っている「X+3=1」の話。廣瀬純『シネマの大義』のゴダール座談会を読むと面白い。

ラリー・クラーク『KIDS/キッズ』(1995)

若い男女がキスをしている。おおよそ真実を口にしていなさそうな若い男が彼女を口説く。

「何を考えているかわかるかい?」

「セックスでしょ?」

君のことばかり考えている。セックスは最高さ。妊娠なんてしない大丈夫さ。と嘘八百を口にしながらついに彼女と性交へ——。

若いということはそれだけで輝かしければそれだけで罪深い存在である。ストリートカルチャーどっぷりな彼らは当然のように万引きをするし、セックスの話ばかりする。親の金をくすねてマリファナを買えば喧嘩を売って仲間で寄ってたかってリンチもする。時間はたっぷりあるけど金はない。金がないけど女は口説きたい。何が魅力的なのか全くもってわからないが、女はホイホイとクズ男に引っかかっていく。金やクスリや酒を共有するように軽薄に女も共有する。誰かが固有の誰かのものではなく、みんながみんなのもの。それに誰もケチをつけないし、そこいらでセックスをしていても知らん顔。けだるくて軽薄な日々がフィルムに焼きついている。

男/女の会話をそれぞれモンタージュしたり、女の話をしているときにストリートカルチャー(スケボー等)の映像を組み合わせてみたりとまさに90年代感な編集か。特にこの頃というか、私は小学生だったのだけど、多分道徳とかの授業でHIV関連の映像をよく見たような記憶がある。それはテレビ経由も含まれていたかもしれないけど、彼らは家があるにも関わらずまるでカネフスキーの『ぼくら、20世紀の子供たち』(1993)のストリートチルドレンのようにストリートに生きている。ストリートでタバコを吸って、たまにマリファナやって、共通の友達と集まって飲んだりセックスしたりする。彼らには上下という価値観がなく、全てが等価であり、横のつながりが最優先される。2010年代がシェアの時代といわれるが、根本的に人間は誰かと誰かが繋がっていなければ生きてはいけない生き物——いわゆる大衆として——なんだなと改めて実感するような作品だ。

多分幾つかの似たようなテーマの作品を見たような気がするし、今見ても対して新しさのようなものは感じないけれど、フィルムの質感や彼らの気だるい表情。過去も未来もなくただ目の前の尻を追いかける彼らの軽薄さが生っぽく焼き付いているので、ひさびさに見ることができてよかった。この辺りそこまで追っていないけど、最近の映画だと『浮草たち』とか『グッド・タイム』あたりがメジャーどころのフォロワーだろうか。インディー系というと『パリ行き』も観光シーンがずっと続いていたら最高だったんだけど。

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