つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーションのこと

「山田尚子」論に向けて(2)――古典から見る映画の振動について

前回「山田尚子」論に向けて思考の見取り図のようなものを書いてみたが、他にも書きたいことが出てきたので、(2)としてみた。続きというか、もっと断片的なことになるかもしれない。前回と同じくこの文章がそのまま本論につながっていくかわからないが、私が山田尚子を考えるにひとつのキーワードである「振動」について書き残しておく。どちらかというと「山田尚子」というよりも「映画」について考えるエントリーになっているかもしれない。

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山田尚子」を考えるに『未来少年コナン』を物心ついたころぶりに鑑賞してから、高畑のテレビアニメも再鑑賞する必要があるなと思いつつ映画の古典も必須だ……という思いに駆られて古典の再鑑賞も実施していた。

小津の『浮草物語』における切返しとアクションつなぎカッティング・イン・アクション)を見ているとやはりアクションが止まらないなと。「アクション映画」と打って出ている映画よりはるかにアクションが止まらないことがわかる。絶えず映画が振動していて画面から目を離せない。最近『万引き家族』での擬似親子が釣りをするシーンの指摘で『父ありき』が引用されているって話があるけど、あれは『万引き家族』の「物語」の枠組みがそれを要求するだけであって、小津のような絶えず流動するアクションの中で発生しているわけではなく、同じように使用されているかといえば似通ったものではないということがはっきりわかる。小津はこんなにも停滞しないから。こんなことを書いているのも『浮草物語』にも『父ありき』同様に釣りのシーンがあるからなんだけど。

脱線したので話を戻すと、まあ小津は「すごいだろう……」って感じなんだけど、マキノも見返しているとやっぱりすごい。『次郎長三国志 第二部 次郎長初旅』で次朗長が駆け落ちした若いカップルの仲を取りもとうと彼女の両親に挨拶するシーン。狭い路地裏っていう場も味噌なのだけど、次朗長と彼女の父親の切り返しから娘の相手が出てきた途端に父親の様子が変わる。ここから彼を箒? で殴るんだけど、カッティングインアクションから少し長めのワンカット。殴る父親をミディアムショットで捉えて引きのショット(娘の相手は映さない)。そして叩き終わったあと彼女の父親は泣いてしまう。さっきまで娘は嫁にやらないといっていた彼女の父親が「あいつを立派なヤクザにしてくれ」って頼むんだけど、そこからのショットがとんでもない。カメラが次朗長を捉えゆっくり左へ動いていき、父親が後ろから「立派なヤクザにしてくれ!」って頼む。次朗長が振り返り「いけねえ!」って叫んでびっくりした父親が慄く。そのとき方向が左への運動から右へと逆向きになる。次朗長の対岸側は狭い路地裏で壁になっているので運動はせき止められてしまうが、そこにいた仲間が次朗長の「いけねえ!」っていう運動を受け取ってしまってクシャミをしてしまう。そのクシャミが仲間にも連鎖していく……というものすごいシーン。逆向きになった運動は直線方向には進めなくなってしまって、壁にぶつかって拡散していく…という。クシャミをするのはふんどし一丁だから、ふんどし一丁なのは着物が盗まれるから、着物が盗まれるのはお金が必要だから、お金が必要なのは料理屋が旅人をもてなすため……と、いつまでも続けられるけれど、何が言いたいかというとアクションが止まらないってこと。

映画は絵画ではないのだからいくら端正なショットを羅列しても運動が起きない。モンタージュなりなんなりもあるけれど、映画が意味から解き放たれて画面に眩いばかりの光を生むのは、こういった運動がつながっているように見えるからに他ならないのではないだろうか。かっこつけた言い方だと「身体」的な体験。「フィーリングで映画を見る」って感じだろうか。感覚は個人のものなので、なかなか言語化するのが難しく抽象的な表現になってしまうが、私には言語化することが極めて重要な事柄だと感じる。頭ではなく身体で感じること。それを言葉にしたい。

ではアニメーションにおける「振動」って何だろうか? 「映像」単位でいえば今の話を援用することも可能だろうし、すべてを表層で語るのであればそれも可能だろう。しかしもともと動いているもの――動いているものを動かないように撮る映画もあるので切り分けるのが困難であるが――を撮影する映画と、動きを創出しなければならないアニメーションとはまず仕組みから根本に違うのである。例えばドゥルーズの哲学から影響を受けたトーマス・ラマールは『アニメ・マシーン』にて、「シネマティズム」と「アニメティズム」に分けて説明している。

 

表象文化論学会ニューズレター〈REPRE〉:トピックス (4)

(引用がめんどくさかったので未読の方はこの辺りを参照ください)

 

ラマールは日本のアニメおよびアニメーションから諸レイヤーの間隔で発生する運動について論じている。実写であれば見たまま(という言い方には語弊がありそうだが)に、あるものを映すといった行為から始めるが*1、絵を組み合わせてレイヤーの前にあるもの、後ろにあるもの、中間にあるものを動かして運動を生成するアニメーションとはそもそも映っているものが違う。*2 仮に実写でなくてアニメであっても——ラマールがいうシネマティズムのように——一点透視図法で描かれたものは奥行きを感じるだろう。鑑賞者が感じることは似通っていてもやっぱり映画とアニメーションではそもそも違いがある。それが人形アニメーションであったとしても、人形はひとりでに動くことはない。誰かが動かさなければならない。

アニメーション固有というと水江未来にも注目したい。音響の使い方が巧みなアニメーション作家であり、画面上のオブジェクト常に振動しているかのような印象を受ける。細胞アニメーションといわれる作品や幾何学アニメーションなるものもあるが、彼のアニメーションは運動と音楽が絡みって空間を生成している。

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なぜ音響について考えているかというと、画面が振動するには空間が必要であり、空間を作るには音響が必要ではないかと感じているからだ。(もちろんトーキー以前の古典から「振動」を感じているので、サイレント映画でも空間は存在するし「振動」もするということも頭にいれておく。)それはもちろん山田尚子を考えるにも重要な事柄だと感じている。特に牛尾憲輔が音楽を手がけた『聲の形』と『リズと青い鳥』が示唆的な内容だったと感じられる。『リズと青い鳥』でふたりのすれ違った空間を作り上げたのも彼の音楽が役割を担っているし、山田と牛尾の共通言語も作品が触覚という概念を呼び込んでいるように思える。*3

触覚的な受容は、注目よりも、むしろ慣れという方途を辿る。建築においては、慣れをつうじてこの受容が、視覚的な受容をさえも大幅に規定してくる。(『複製技術時代の芸術作品』ヴァルター・ベンヤミン

 先日、多木浩二ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(岩波現代文庫)を通じて『複製〜』を読み直すなどをしていたのだけど、どうも「9、触覚の人ベンヤミン」がキーになるような気もしないでもない。まだ整理できていないが、私が思う「振動」の果てに「触覚的受容」がベースになっているのではないか? そういえばアニクリ6.0にて『傷物語』を丹下健三の建築を手がかりに書いたように、空間的なものを考えるにもつながってくるように思えてならない。

まだまだ言語化できないが、「触覚」が山田尚子の映画と結びつきオブジェクト同士がつながってしまうような——レイヤーを超えていくことがありえてしまうのではないか? ということも考えていきたい。それにはもっとアニメーションを見る必要がある。さて、書きたいことが膨らみ過ぎてきたが、果たして本論はかけるのであろうか。また(3)に続くのだろうか。

 

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

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複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

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アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-

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あの頃映画 松竹DVDコレクション 「父ありき」

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*1:もちろん今では実写映画でもCG全盛期であり、例えばマーベル作品においてもその扱いは顕著だろうアニメともいえなくもないかもしれない。ただ、実写とCGの組み合わせにしろ、役者が”どこか”で演技をしているといった絶対条件は外せないのでまったくゼロから作るアニメーションとはま違うものだと思うが。

*2:ここでいうアニメーションという言葉の用法は極めて限定的な使用方法。

*3:映画「聲の形牛尾憲輔インタビュー山田尚子とのセッションが形づくる音楽 https://animeanime.jp/article/2016/09/16/30521_2.html

『寝ても覚めても』と『きみの鳥はうたえる』

 彼女は二度寝る。

寝ても覚めても唐田えりかは上品なお嬢様風の空気を身をまといながら、ちょっと外れた人物を演じている。ふたりの東出はもちろん不気味に描いているのだが、どうも唐田えりかも十分怪物に見えてくる。濱口竜介は期間限定で配信されていた『天国はまだ遠い』ぶりだった。『天国は〜』もそうだが厳格なショットに満たされており、端正な画面でよかったと思う。震災が起きて彼/彼女らが再会して互いの足を捉えていくショットなんて絶品だった。それと彼女が東出1号(麦)と付き合っていたときの花火をするシーンとか、大阪の家を東出2号に追い出されて病気した友人の家へ訪問したところなんかもいい。あとは追い出されるシーンはボールが外から転がってきて投げ返すと後ろに東出2号がいるシーンなんかは絶品だろう。怪奇映画化していたのであの辺りは『接吻』になるんじゃないだろうか? なんてヒヤヒヤするほど。唐田えりかが寝て覚めると毎回高速から降りていて、運動が渋滞や高い堤防(海)なんらかしら阻害されるんだよね。猫といい捨てても捨てきれない残留思念みたいな。「物語」的には周り巡ってよかったって感じなのかもしれないが、画面はそんことを素直に言わせないような終わり方。寝て覚めた唐田を見るとまるで別世界に転生してきたかのような顔をしてる。彼女はずっと夢をみているのかもしれない。夢への旅。

 

三宅唱きみの鳥はうたえる』。濱口竜介に比べるととてもフリーダムな作品に感じた。それは特に前作『密使と番人』がやたら厳格な映画文法で作られていたから余計にそう感じるのかもしれない。自由さでいえば『Playback』もそうだけど、態度的にはショットを撮るより役者を撮ろうってことなんだろうなーと。冒頭、柄本のもとに石橋が戻ってくるところの顔面どアップなんてシネスコで「そこまでやるか?」ってくらいのギャンブルっぷり(これ好きでした)だったし、コンビニの会計シーンとかOMSBがいるクラブのダンスシーンなんてフィクション前提としてこれやるんですか? ってくらい贅沢な時間だった。『寝ても覚めても』にもクラブシーンがあったのだけど、使用方法がまったく違う。雑に冷蔵庫のドアを二回閉める柄本とか、染谷の怖い顔、侯孝賢にはしないビリヤード場。卓球している染谷の身体感覚(手の動き)など、『THE COCKPIT』を撮った延長線(「身体」的な)にこの映画はある。

函館のロケーションもズバ抜けてる。夜の街並みは眼福。ただただ幸せ。それとただ歩いていればいいのに染谷がちょっと道路側に出てみて街並みを映すところとか、最後に本屋の若いねーちゃんと兄ちゃんが朝方抱きつきながら消えていくところとか、「店長大好きです!」っていういい年したバイトの男とか役者を愛しすぎている。二回目見る前に『Playback』を見直したけど、やっぱり役者の「遊び」を撮るに注いでいるほうが三宅唱に合っていると感じた。だからイマジナリーラインなんかいきなりすっ飛ばしてくるんだよね。『無言日記』なんかもそうだけど技術よりも”何か”を持っているんだよね、この人。

 

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「山田尚子」論に向けて――アニメーションにおける作家性について

アニクリ9.5の『リズと青い鳥』号を読みながら山田尚子について考える。一応、山田尚子論なるものは日々考えているのだけど、ここに書くことはとりあえずの素案のようなものになる。(といいながらまったく違うものになる可能性もあるし、そもそも書けない可能性すらある)またここで書いたことはアウトプットすることで思考を拡張させる、といった自分の目的から書くことであり、彼女の作品をすべて見直して丁寧に書いている文章とは違い、多少の記憶違いがあるかもしれない。思考の見取り図のようなものであることを承知いただきたい。

 

d.hatena.ne.jp

 

以前、『声の形』を見たときに、山田尚子と「投げること」について蓮實のエピゴーネンのようなこと――といいながらもただ物事を羅列しただけなので蓮實の本質を捉えている文章にはまったくなっていないのだが――をしてしまっていたのだが。

それを踏まえた上で新作の『リズと青い鳥』を鑑賞してからの印象は変わるところか、より印象が核心へとつながったように思える。それは例えば『たまこまーけっと』で北白川たまこに思いをよせる大路もち蔵の不器用な身振りと彼女との接近をはばかるデラ・モチマジィの存在であったり、理解できない存在と暴力でしかコミュニケーションをとることができない『聲の形』の石田将也であったり、国と国をまたぐ恋文を公開(ショー化)することを踏まえ演出された『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のシャルロッテ王女とダミアン王子が思い出されるように、それは二人の間にある距離である。その距離は絶対的な距離の長さ/短さが問題なのではなく、それは『たまこま』のように幼馴染であっても、小学生のころのイザコザからある日、高校生になって再会する『聲の形』であったりとバリュエーションは豊かである。道路を挟んで向かい合った二階の窓から放り投げられる糸電話といった道具が空に放物線状の運動を生み出すように、また、その糸に伝わる振動が彼/彼女に違った――主にもち蔵の期待からの誤解による――リアクションをさせるなど、一定の距離によって双方に運動を生じさせるようなことである。

それはアニクリ9.5の拙稿(「私たちは溶け合っている 『リズと青い鳥』における交換可能性/交換不可能性」)にて『リズと青い鳥』の主題を解明するに、既に『響け!ユーフォニアム』にて繰り返し表現された上下の主題――人間-鳥や上級生-下級生と想像するにたやすい――だけではなく、閉鎖空間で繰り広げられる親友との距離がドラマを生むと論じた。

そういったドラマが生じることで画面から振動が伝わってくる。その振動の概念はまだ曖昧なままなので明言を避けるが、例えば『たまこま』において台所など人物の姿が見えない場所のショットで画面外から話し声が聞こえてくる。そしてショットが切り替わり、切り返しが始まるなどのつなぎなどの――ここで山田尚子は小津の後期作品で繰り返し見られる廊下の描写を少なからず意識しているように思える――切断/接続によってスムーズな運びを見るに思うところであり、また実際に画面が振動しているというと『たまこま』で母親が歌っていた曲を解明していく上で、あるカセットテープを聴くことになる。それを廊下で聞いていた父親があわてて障子を開けることで生まれる振動ともいえるかもしれない。それに少年時代の石田将也が一方的な暴力を取ることで、それが反響した結果いじめを生むことになるが、反響しあうということは自分にも跳ね返ってくるために自分もその標的とされる。成長した高校時代においては暴力から手話といったコミュニケーションに交換されているように、最初の手段が何であれ何かと何かが衝突すれば波紋が広がり、環境を作り出すことになる。しかしアニメーションにおいてはその画面内でオブジェクト同士が触れ合っているように見えても、実際は多平面的なレイヤーであり、それも一定の距離を置くことで違和感なく表現されていることを忘れてはならない。ぶつかっているように見えているといったことのほうが重要だろうか。

しかし上記にあげつらえた作家(?)性のようなものは山田固有のものだろうか。北白川たまこがカセットを聞いているといきなり父親が扉を開くエピソードの絵コンテ手がけたのは三好一郎(木上益治)であるし、『響け!ユーフォニアム25話でフレームの内/外とイメージ(思い出)を見事につなぎ演奏シーンを演出したのも彼である。また『響け!』での山田の仕事はシリーズ演出であり、監督はあの石原立也である。実写映画における「映画は誰のもの?」の回答の難しさもあるが、アニメーター単位においても分業作業が要請されるテレビアニメなどはもっと難しい切り分けになるだろう。クレジットやインタビューでそういった情報を補完することは可能であるが、それがすべてではない。あくまでも目の前に存在する、スピーカーから流れてくる、映像や音で私たちは作品を論じなければならない。それに表象されたものを語るのではなく、すべてを表象で語る必要もある。

以前のエントリーのようにわかりやすく「投げること」だけを特出するだけでもある程度の作家論風なものができるかもしれないが、より山田尚子の性質を見極めなければならない。監督、各話の絵コンテ・演出の差異。石原立也が監督のときはどうであったか? 石立太一のときは?――それぞれの場合の彼女の立ち位置。それこそ環境という「空間」が立ち上がってくるのではないだろうか。京都アニメーションとはどうであったか、山田尚子とはなんなのだろうか。

また京都アニメーション以外の作家との歴史と照らし合わせる必要もあるかもしれない。例えば代表的なところでいえば宮崎駿高畑勲の違いとは何か。それに出崎や押井なども忘れてはならないし、山内重保も重要な映像作家だ。さまざまな作家(?)との差異も俯瞰して確認するような作業。先日『未来少年コナン』を見直して思ったのは、山田とは違って宮崎は純粋な活劇になる。『未来少年コナン』においても、のこされ島、ハイハーバー、インダストリアでラナをさらわれたり、取り返したりと距離も浮かび上がってくるが、それよりも交換――例えばラナや彼女の母親の宝石、子豚を預けるなど――を契機として運動が生じる構造を繰り返すことでまったく止まることを知らない活劇に向かっているように思える。

出崎であれば「時間」といった概念かもしれないし、表現の仕方は違えど山内重保と出崎の作品を見ていると似たような感覚を共有できるかもしれない。また学生時代に年間1000本の映画を見ていたと噂される生粋のシネフィルである押井守は、宮崎駿からレイアウト、出崎から時間を学んだ。その上で彼のレイアウトシステムが何を指すか。一から考えて見ると面白い発見があるかもしれない。

また自分で書いておいてなんだといった話になるが、山田尚子を実写映画固有のものとして見るといった言説からも開放しなければならないとも思える。いくら小津を意識しようがそれは見かけ上、小津に見えるのであり、山田固有の事柄ではないのかもしれない。そこからこぼれ落ちたものをすくい上げる必要がある。それはアニクリ9.5でのtacker10『結んで、開いて 映画「リズと青い鳥」』からアニメ固有のことが抽出できるように思えるし、てらまっと『無意識をアニメートする 「リズと青い鳥」と微小なものの超越性(第二稿)』によって細部からアニメーションを考えることもできるかもしれない。運動を創出するアニメーション固有の事柄と「山田尚子」という作家(?)をつなげられれば、彼女にまとわりつく「映画」固有の言説から開放することができるのではないだろうか。

やたらとハードルが高くなるようなことを書いているが、私は特別「哲学」の知識があるわけでもないし、とにかく見ることで動体視力を宿し、身体で体感するようなことについて批評というか自分の考えをまとめることしかできない。結局のところそれを目撃してしまった!といった感覚が私の興味範囲である。山田尚子という既に評価の高い作家(?)を新たに作家論という政治的活動に持ち込むことが果たして何の結果を得るのか、自分でもわからないが、この作業は今見えていても気がつかない何か。または彼女を取り囲む言説からこぼれ落ちた何か。何かしらの気づきになればと思っている。

 

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