つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーションのこと

「山田尚子」論に向けて――アニメーションにおける作家性について

アニクリ9.5の『リズと青い鳥』号を読みながら山田尚子について考える。一応、山田尚子論なるものは日々考えているのだけど、ここに書くことはとりあえずの素案のようなものになる。(といいながらまったく違うものになる可能性もあるし、そもそも書けない可能性すらある)またここで書いたことはアウトプットすることで思考を拡張させる、といった自分の目的から書くことであり、彼女の作品をすべて見直して丁寧に書いている文章とは違い、多少の記憶違いがあるかもしれない。思考の見取り図のようなものであることを承知いただきたい。

 

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以前、『声の形』を見たときに、山田尚子と「投げること」について蓮實のエピゴーネンのようなこと――といいながらもただ物事を羅列しただけなので蓮實の本質を捉えている文章にはまったくなっていないのだが――をしてしまっていたのだが。

それを踏まえた上で新作の『リズと青い鳥』を鑑賞してからの印象は変わるところか、より印象が核心へとつながったように思える。それは例えば『たまこまーけっと』で北白川たまこに思いをよせる大路もち蔵の不器用な身振りと彼女との接近をはばかるデラ・モチマジィの存在であったり、理解できない存在と暴力でしかコミュニケーションをとることができない『聲の形』の石田将也であったり、国と国をまたぐ恋文を公開(ショー化)することを踏まえ演出された『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のシャルロッテ王女とダミアン王子が思い出されるように、それは二人の間にある距離である。その距離は絶対的な距離の長さ/短さが問題なのではなく、それは『たまこま』のように幼馴染であっても、小学生のころのイザコザからある日、高校生になって再会する『聲の形』であったりとバリュエーションは豊かである。道路を挟んで向かい合った二階の窓から放り投げられる糸電話といった道具が空に放物線状の運動を生み出すように、また、その糸に伝わる振動が彼/彼女に違った――主にもち蔵の期待からの誤解による――リアクションをさせるなど、一定の距離によって双方に運動を生じさせるようなことである。

それはアニクリ9.5の拙稿(「私たちは溶け合っている 『リズと青い鳥』における交換可能性/交換不可能性」)にて『リズと青い鳥』の主題を解明するに、既に『響け!ユーフォニアム』にて繰り返し表現された上下の主題――人間-鳥や上級生-下級生と想像するにたやすい――だけではなく、閉鎖空間で繰り広げられる親友との距離がドラマを生むと論じた。

そういったドラマが生じることで画面から振動が伝わってくる。その振動の概念はまだ曖昧なままなので明言を避けるが、例えば『たまこま』において台所など人物の姿が見えない場所のショットで画面外から話し声が聞こえてくる。そしてショットが切り替わり、切り返しが始まるなどのつなぎなどの――ここで山田尚子は小津の後期作品で繰り返し見られる廊下の描写を少なからず意識しているように思える――切断/接続によってスムーズな運びを見るに思うところであり、また実際に画面が振動しているというと『たまこま』で母親が歌っていた曲を解明していく上で、あるカセットテープを聴くことになる。それを廊下で聞いていた父親があわてて障子を開けることで生まれる振動ともいえるかもしれない。それに少年時代の石田将也が一方的な暴力を取ることで、それが反響した結果いじめを生むことになるが、反響しあうということは自分にも跳ね返ってくるために自分もその標的とされる。成長した高校時代においては暴力から手話といったコミュニケーションに交換されているように、最初の手段が何であれ何かと何かが衝突すれば波紋が広がり、環境を作り出すことになる。しかしアニメーションにおいてはその画面内でオブジェクト同士が触れ合っているように見えても、実際は多平面的なレイヤーであり、それも一定の距離を置くことで違和感なく表現されていることを忘れてはならない。ぶつかっているように見えているといったことのほうが重要だろうか。

しかし上記にあげつらえた作家(?)性のようなものは山田固有のものだろうか。北白川たまこがカセットを聞いているといきなり父親が扉を開くエピソードの絵コンテ手がけたのは三好一郎(木上益治)であるし、『響け!ユーフォニアム25話でフレームの内/外とイメージ(思い出)を見事につなぎ演奏シーンを演出したのも彼である。また『響け!』での山田の仕事はシリーズ演出であり、監督はあの石原立也である。実写映画における「映画は誰のもの?」の回答の難しさもあるが、アニメーター単位においても分業作業が要請されるテレビアニメなどはもっと難しい切り分けになるだろう。クレジットやインタビューでそういった情報を補完することは可能であるが、それがすべてではない。あくまでも目の前に存在する、スピーカーから流れてくる、映像や音で私たちは作品を論じなければならない。それに表象されたものを語るのではなく、すべてを表象で語る必要もある。

以前のエントリーのようにわかりやすく「投げること」だけを特出するだけでもある程度の作家論風なものができるかもしれないが、より山田尚子の性質を見極めなければならない。監督、各話の絵コンテ・演出の差異。石原立也が監督のときはどうであったか? 石立太一のときは?――それぞれの場合の彼女の立ち位置。それこそ環境という「空間」が立ち上がってくるのではないだろうか。京都アニメーションとはどうであったか、山田尚子とはなんなのだろうか。

また京都アニメーション以外の作家との歴史と照らし合わせる必要もあるかもしれない。例えば代表的なところでいえば宮崎駿高畑勲の違いとは何か。それに出崎や押井なども忘れてはならないし、山内重保も重要な映像作家だ。さまざまな作家(?)との差異も俯瞰して確認するような作業。先日『未来少年コナン』を見直して思ったのは、山田とは違って宮崎は純粋な活劇になる。『未来少年コナン』においても、のこされ島、ハイハーバー、インダストリアでラナをさらわれたり、取り返したりと距離も浮かび上がってくるが、それよりも交換――例えばラナや彼女の母親の宝石、子豚を預けるなど――を契機として運動が生じる構造を繰り返すことでまったく止まることを知らない活劇に向かっているように思える。

出崎であれば「時間」といった概念かもしれないし、表現の仕方は違えど山内重保と出崎の作品を見ていると似たような感覚を共有できるかもしれない。また学生時代に年間1000本の映画を見ていたと噂される生粋のシネフィルである押井守は、宮崎駿からレイアウト、出崎から時間を学んだ。その上で彼のレイアウトシステムが何を指すか。一から考えて見ると面白い発見があるかもしれない。

また自分で書いておいてなんだといった話になるが、山田尚子を実写映画固有のものとして見るといった言説からも開放しなければならないとも思える。いくら小津を意識しようがそれは見かけ上、小津に見えるのであり、山田固有の事柄ではないのかもしれない。そこからこぼれ落ちたものをすくい上げる必要がある。それはアニクリ9.5でのtacker10『結んで、開いて 映画「リズと青い鳥」』からアニメ固有のことが抽出できるように思えるし、てらまっと『無意識をアニメートする 「リズと青い鳥」と微小なものの超越性(第二稿)』によって細部からアニメーションを考えることもできるかもしれない。運動を創出するアニメーション固有の事柄と「山田尚子」という作家(?)をつなげられれば、彼女にまとわりつく「映画」固有の言説から開放することができるのではないだろうか。

やたらとハードルが高くなるようなことを書いているが、私は特別「哲学」の知識があるわけでもないし、とにかく見ることで動体視力を宿し、身体で体感するようなことについて批評というか自分の考えをまとめることしかできない。結局のところそれを目撃してしまった!といった感覚が私の興味範囲である。山田尚子という既に評価の高い作家(?)を新たに作家論という政治的活動に持ち込むことが果たして何の結果を得るのか、自分でもわからないが、この作業は今見えていても気がつかない何か。または彼女を取り囲む言説からこぼれ落ちた何か。何かしらの気づきになればと思っている。

 

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