つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーションのこと

フアン・アントニオ・バヨナ『ジュラシック・ワールド/炎の王国』(2018)

 

 「さようなら、フィクション

絶滅から数億年の年月が経過した現代に蘇った恐竜。火山噴火~島からの脱出、ブラキオサウルスの最期は彼らの歴史をまたなぞるのか?と思わせるような見事な切返しショットで、眼下に広がる海の物理的距離をなくすが、またそれは私たちが信じた恐竜(フィクション)が絶滅していく、精神的な——数億年という——距離を感じさせることにもなる。それは『ジュラシック・パーク』(1993)で感じた恐竜の実在感——フィクションの肯定を25年の歳月をかけて白紙に戻すどころか、永久に追放してしまうような虚無感を与えるだろう。

しかし、それはまた簡単に結末を想起することが可能な脚本が、私たちをフィクションというステージに戻す呼び水となる。 

〈炎の王国〉たいそうなタイトルをつけられた本作ではブルーを探すために島へ到着。そして火山噴火~逃げるといった一連の流れが展開され、その後、舞台はある屋敷で行われる闇オークション会場に移る。確かに間違ったタイトルではない——それは最後に突きつけられる結果にも言えることだろう——のだが、ほとんどが屋敷内のホラー及びサスペンス演出といった方面に進むため、恐竜が暴れまわるシーンを期待したのならば戸惑いを隠せないのではないのだろうか。 

考えてみればデル・トロが制作を担当した『永遠のこどもたち』を監督したフアン・アントニオ・バヨナがメガホンを取ったといえばそうであろうという結果であるが。ただ、ホラー出身ということで影の演出は優れていた。それは水中から突如現れるモササウルスがそうであるし、なんといっても試作品のラプトルがまさしく影をつかった恐怖演出を見せてくれた。

スピルバーグ印の妙な照明も引き継がれていたが、物足りないのも事実だった。屋敷版ロストワールドといっていいようなものだったが、ロスト・ワールドにあった「殺人」への執着心が薄かった。せっかく崖から落ちる3人を救う任務をしたというのに、脚を捕まれ二匹のTレックスに人体を真っ二つにされて殺されるシーンを筆頭に、見るも無残に死んでいった彼らに比べて1作目から感じていたが殺され方に楽しみを感じない。頭突きされ吹っ飛んでいく客たちは面白かったが一人くらい内臓破裂するなり、手がもげるなりといった殺人を見たかった。

そういった食い足りないところがあるにしろ、お約束でTレックスの雄叫びが最後にまた聞けたので相対的によかったかな、という気がしないでもない。特に冒頭書いたブラキオサウルスのシーンは本当に「さよなら、フィクション」の気持ちでこみ上げてくるものがあった。

 

 

tampen.jp主催『アニメーションの〈いま〉を知る−−「キャラクター」という宇宙』2日目イベント レポ

先日はtampen.jp主催の『アニメーションの〈いま〉を知る−−「キャラクター」という宇宙』に行ってきた。こちらのイベントは9種類の短編アニメーションを上映し、登壇者2名によるトークショーといった形式をとっており、今回はタイトル通り「キャラクター」に重きをおいた作品を選んで上映をしていた。イベントは2つ日間に渡り開催されていたが、私が行ったのは2日目。この日の登壇は、視覚文化評論家の塚田優さんと、2017年の批評再生塾に参加されていた灰街令さん。

tampen.jp

 当日の上映作品は以下の通り。

『どんどんカタストロドン』くわがた、2012
Airy Me』久野遥子、2013
『ゆきすすみさりゆき』くわがた、2014
『正太郎』前田結歌、2014
momoka 3』相磯桃花、2014

momoka exseeeeess‼︎』相磯桃花、2015
『私には未来がある』大内りえ子、2016
YUMTOPIA』星夢乃2017
『螺旋のクオリア』山下理紗、2018

冒頭主催からの挨拶が終わってから、すぐにアニメーション上映開始。全て合わせても30分~40分程度だったろうか。テレビアニメや映画であれば、あっという間に感じられるかもしれないが、映画祭などで短編アニメーションを続けて見るとこれが結構疲れる。

基本的に個人作家ということがあるのかもしれないが、個人作家による短編アニメーションは人が介在することが少ないので、より私的なエネルギーを宿す。またアニメートの方法も千差万別ってのも疲れの原因かもしれない。

しかし、それだけに魅力的な作品もたくさんあるのが事実だ。 

今回のイベントでは2013年~2018年に発表された作品を年代順にかけていく。トークショーでこの流れにも触れられていたが、私は最初の『どんどんカスタドン』と『螺旋のクオリア』には時代を感じた。

『どんどんカスタドン』はMAD的(そんなに詳しくないのだが)なのだろうか、オブジェクトがバンバンと足し算されていくような感覚。インターネット的とでもいえばいいか、少し前の時代を感じるような短編。逆に『螺旋のクオリア』は今どきな作風で、もともとはゲームだったものを短編作品に落とし込んでいるよう。この辺りはデヴィッド・オライリー的な感覚だろうか。トークショーで灰街さんも話しておられたが、『BLAME!』あたりの3DCG的な感覚がある。あと『シドニアの騎士』あたりを想起した。でも、私個人的にはあまりピンとくるものがなかった。このあたりは時代を感じる構成でしたが、それに挟まれた作品はそこまで時代的なものは感じなかった。 

いちばんよかったのは『ゆきすすみさりゆき』。少女の背中からカメラを回して、ただ歩いているってショットを撮るのだけど、風景が変わったり少女の姿が変形していく。たまに後ろを振り返ったりするんだけど、常にキャラクターや風景が揺れ動いているってところが印象的。一時的な記憶を保持しようとするんだけど、それが崩れたり混ぜ合わさったりするので画面(記憶)が揺らいでいるのではないか?と感じた。背中から徹底的にカメラを回すというと『サウルの息子』を連想する。あれも私的なものとして、表象不可能な出来事を記録として残すから。サウルが2015年でこちらが2014年ってのも面白いね。

『私には未来がある』は短編といえど15分オーバーなので結構疲れてしまって、次の『YUMTOPIA』は完全に失念してしまった

今回の登壇は「キャラクター」に焦点を当てていたので『キャラクターを、見ている。』で『かぐや姫の物語』の批評を書いた塚田さんと、批評再生塾の最終課題で、『キャラジェクトの誕生』を書いた灰街さん。トークショーはもう少し聞きたかったなーって感じだったんだけど、案外すぐ終わってしまった。レポするより実際の配信動画があるのでこちらを参照ください。

 

www.youtube.com

 

一時は人が集まるのか微妙なことをツイートされていましたが、結果、ほとんど席が埋まっていましたのでよかったんじゃないかな。今回上映された作品は作家のvimeoなどで見れるものもあるので、何度か見てみようかなーと思っている。これからも続くのであればぜひ見に行きたいですね。楽しい時間を過ごせました。

 

美術手帖 2014年 10月号

美術手帖 2014年 10月号

 

school.genron.co.jp

 

ホン・サンス『正しい日 間違えた日』(2015)

「これは、、、」と思う映画と出会って、外に出ると雪が降っている。「ギシギシ」と積もった雪の上を歩きながらその映画のことを反芻する。人生の中で最良の時間とまでは言わないが、気持ちが高ぶるに違いない。これは『正しい日 間違えた日』のラストシーンである。

本作は同じ日が二回繰り返される。筋書きとしては映画を地方で上映することになった監督が、その地方で出会った女性と上手くいくか/失敗するか、といった恋愛というか愛というか…まあ、いつものホンサンス映画で繰り返されるような脚本である。本作の前に見た『それから』(2017)で改めて強く思ったのが、ホンサンスはとても頭のいい監督ということ。

二回繰り返される同日についてもお話としてはほとんど変わらないが、カットを抜いてみたりカメラポジションを変えてみたりしている。単純に「お話を変えました」のような代物にはなっていない。私たちは生きている中で似たような日を幾らか――または毎日とも言えるかも知れない――過ごしている。それはまったく同じ日とはいえない。でもどこか似ている。私たちの日常は反復に溢れており、何度も繰り返される似たような日(ルーティン)は些細な差異で繋ぎとめられている。

ホンサンスは同じ日を「過去-現在」、もしくは「過去-未来」のように語ることはなく、映っているその映像は常に「現在」であろうとする。『それから』で一見バラバラに羅列されて見える映像も常に「現在」であり、それもわざわざ説明することもなく後々に「あっそうだったんだ」という出来事を見せてくれる。「意味深です!」といったわけのわからない映像の羅列ではないし、つじつま合わせの回想を試みるわけではない。

キム・ミニが監督の映画を見て外に出てみると雪が降っている。その雪でさえ「降っているのは当然だ」と思わされてしまう。それくらい些細なことに感じる。これが映画のマジックだ。

それに私たちは彼の映画で雪を目撃している。しかもこれまた幸か不幸か、ホンサンスの映画が輸入されてこない期間(時間)――つまりある種の編集によって、『それから』の終盤タクシーから雪を見るキム・ミニの美しい顔を、私たちは先に目撃してしまっているのだ。些細なことが後に予期せぬ感動を呼び寄せる。だからホンサンスの映画を見たくなるのだ。