つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーションのこと

ヒョウソウ、ガイブ、ジブンガタリ『花束みたいな恋をした』

「大学生の頃、髪を赤く染めて高校の時に始めたギターで、XのBLUE BLOODを練習したけど、練習嫌いだったからすぐ辞めちゃったな。スラッシュドミネイションでテスタメントを見て、運動会(サークルモッシュ)したなあ〜。ムックが明るくなっちゃって、残念だな〜。X復活まじかよ?って人生すぎるからもちろんいったけど、やっぱりラスティーネイルからまじで号泣。本当に明日が見えないもんだな、とかつまらないことmixiに書いてた気がする。池澤夏樹の世界文学全集でオン・ザ・ロード巨匠とマルガリータを読んで、ガイブン読んでる感にひたっていたかな〜。叶精二さんの話を聞いて、アニメをまた好きになれたなあ。そうそうエウレカセブンが大好きだったし、グレンラガンを見て「忘れるものかこの一分一秒を」とか言ってたなあ。渋谷でともだちとライトセーバー振り回してたな〜。服が大好きで中目黒や高円寺に入りびたったり、大阪に行ってロフトマンやべー!関西系やばいべ!って唸ってたな〜。大学でいちばんのロン毛だったのだけどキモがられていたんだろうな〜。ともだちとデンパにいって、オタクカルチャーがマス層に届く感じってこのことなんだろうな〜とか。ショップ店員と仲良しになってセールになっていない服もセールしてくれたな〜。年越しはともだちが働いているクラブでわちゃわちゃ仲良したちとパリピ(っぽいこと)やってたな〜。ファッション批評にも興味があって鷲田清一とかロラン・バルトかじってたな〜とか、ん? あれ? GASTUNK*1まで出てくるの?」

画面にガスタンクが映っているのに、「GASTUNK好きなの?」と一瞬でも思ってしまった私は画面を見ていないし、この映画にとって都合のいい観客になってしまったのだろう。

そう、どうでもいい自分語りの世界に浸ってしまっていた。

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『花束みたいな恋をした』には、一度も「花束」が出てこない。このタイトルにいかなる理由を見出すか、そんな遊びが氾濫している。でも、そんなものには意味がない。いや、むしろ意味しかない。花束はでてこないけど、花の写真は出てくる。菅田将暉が写真を指差して、「この花ってよく見るけどなんて名前の花?」と聞くと、「女の子から花の名前を教えてもらったら、その花を見るたびにその人の名前が浮かんでくるんだよ。別れても」(台詞うろ覚え)と有村架純が答える。どうやら、これはサブカル知識から有村架純が答えたらしい(私はまったくわからなかった)。本作における「サブカル」は、あくまで物語上で彼・彼女が出会う/別れる、までを感傷的に描くための道具である。それらが演出として画面上でどこまで効果を見せているかは怪しいところではある。物語が想定する範囲の言葉であるし、映画の外部の話なのである。別にそれが悪い/いい、といったことなんて今はどうでもいい。

ふたりが付き合う前、横並びで歩いていると有村架純の心の声(ナレーション)で、「この人、電車に”ゆられて”っていった」という文学的な表現への指摘がある。菅田から(おそらく)無意識に発せられた言葉が、自分を形成する文学的な言葉に感動してしまうくだりなのであるが、文学的な表現があるのであれば映画的な表現はどこにあるのだろうか、と考えていた。でも、そもそも「映画的」といった表現とは一体なんだろうか?

よく批評で出てくるのは、初期映画(リュミエール)を見た人たちは、物語よりも木々の動きや砂埃、海の波飛沫、などの自然現象に驚いていた(関心をおいていた)という言説から、映画=運動といった構図での読み解きである(かなり説明を省略しているので気になる人は、長谷『映画というテクノロジー経験』あたりを読んでいただきたい)。当時は無声(サイレント)映画だったことから、運動に着目していたと考えに導かれていたのではないか。

しかし、現代はトーキー映画が主流であり、肉声以外にも環境音が映画に記録されているし、画面はモノクロではなくてカラーが主流である。カメラはデジタルになり、編集でいかほどにも画面を変えることができる。また、わざわざセットを組まなくても3DCGを使うことで世界ところか宇宙にでもいったように画面を作ることができる。画面構成や表現のバリュエーション、そして方法が増えたといったことで、画面自体の情報量が増えたと勘違いしてはならない。画面の大きさは、スタンダード、ビスタ(アメリカン、ヨーロピアン)、シネスコ等で、初期映画時代からさほど変わっていない。高性能カメラによる解像度は上がっても、情報量は画面に支配されている。

そう、表現方法は違えど(音声と色以外の)画面の情報量にさほどの変化はないので、運動こそが映画である、といった価値判断が少しくらいあってもおかしくはないだろう。あとはなんだろう? そう、ショット(=映画の最小単位)という言葉がある。「これは必要/不必要なショットだ。これは決定的なショットだ」といった言葉の数々。この辺りはシネフィルが云々の不毛な議論に進みそうなので蓮實重彦に頼ってしまおう。そういえば、蓮實重彦がショットに迫る連載をしていたなと、本棚から『群像』を探し当てる。

(…)そこに見られるショットの種類は、その長さやアングルはさまざまに異なっていながら、そのいづれにおいてもショットの厳密でありながらも穏やかな運動性、あるいは穏やかでありながらも厳密きわまりない運動性ともいうべきものが、わたしたちをとらえて話しません。そこでは、ショットが作品そのものから解放されており、同時にわたしたち自信を映画から解放してくれるような思いをいだかせてくれるからです。——「ショットは何か」181頁(『群像』第76巻第2号)

(…)そのとき、スクリーンを領しているのは、午前中の日差しを屋内で受けとめる彼女の横顔だけなのです。だが、そのプロフィールが不意におさまる不動性が、かえって彼女自信が演じたあれこれの身振りをあらゆる者に想起させずにはおきません。まさに、いくえもの生を素描しているかのようなこの素晴らしいルーニー・マーラの凝固したかのようなプロフィールこそ、ショットそのものの定義ともいうべき「寡黙」なる「雄弁」にほかならぬはずだと、いま、わたしは、深く確信することができるのです。——「ショットとは何か」188頁

これらは、彼の映画批評に触れていたものであれば、言葉の差異はあれど前々から言っていることと変わっていないと思うのではないだろうか。映画には物語がつきものであるが、ときより意味から解き放たれたショットというものが存在する。その瞬間は映画を見ていたことも忘れるかのように、ただそこに映っているものに感動してしまうような。「不動性」、俳優の横顔を映したショットを見てその映画で起きてきたこと。また、彼女が演じたすべての役柄を想起してしまう。そんなことがあるかもしれない。そういうショットがある。物語上の意味から解き放たれて、彼女そのものの素面がそのショットに宿っている。映画という媒体だけを信頼して、ただそこに存在するだけのショット。そうそれが映画であると一応の理解としておこうか。

ただ、自分でいうのもなんだが、それは映画”的”とは違うのではないか。そして、これらのショットは、個人の「感覚」によっても左右されてしまうことだ。何か煮え切らない。別の視点で映画を考えてみよう。

そう、例えば個別の演出。例えば、やたらと画面占有時間の長いトイレットペーパーは、両手をふさぐ機能を発揮しているが、それはトイレットペーパーではなくてはならないといったことではない。トイレットペーパーは手から零れ落ちてコロコロと転がるべきだろうし、ふたりの履くジャックパーセルは意味ばかり内包していて、劇的な演出に携わってはいない。猫はその跳躍力(野生のちから)を発揮することなく、思い出の一部としてしか存在できていない。それとなんだあの最後の「粋です」といった手の振り方は(これはただの文句だ)。

しかし、これらの指摘をしたところで映画として公開されているのだから、本作は映画ではある。ではもっと簡単に「映画的」を考える。それは映画の引用だ。ここで映画をご覧になった方々には、菅田将暉有村架純が別れ話をするファミレスでのシーンを思い出してもらいたい。

友人の結婚式が終わったあと、観覧車にのったりカラオケで熱唱したり、付き合いたて当時のような楽しい時間を共有する。そして付き合う前から通っていたジョナサンについて、将来の話(または別れ話)をしていていると、ふたりがよく座っていた席に偶然その日、同じライヴで一緒になった付き合う前の男女が現れる。一度は、菅田の説得で「結婚」といった言葉を思い浮かべるふたりであったが、そのカップルにはふたりが無くしてしまったお互いを思いやる(または思う)心があることに気付かされる。まるで、あの時の自分のように、会うだけで楽しかった。話すだけで楽しかった、そう、もう二度と戻ってこないあのときの自分たち。そのふたりの会話は過去の自分たちを思い出させるようだし、履いているのはジャックパーセルだった。靴に関しては、こうした演出がされているのであるが、それは蓮實重彦がいうような解放のショットではないだろう。ただそれは意味として、あくまでもその映画の物語からは逃れられないアイテムとしての機能である。

またこのシーンはロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』(1954)に影響を受けているだろう。『イタリア旅行』は結婚8年にして倦怠期の夫婦(ジョージ・サンダースとイングリッド・バーグマン)が、叔父の遺産である別荘を売るためにナポリに車で向かう。ふたりで出かけているのに夫はすかさず女性と話しているし、雰囲気は悪くなるばかり。最終的に「離婚だ!」となるのだが、強引にポンペイの発掘現場に連れて行かれ、夫婦と見られる白骨死体が抱き合いながら発掘される現場を目撃する。ここで、イングリッド・バーグマンがショックを受け、その場から席を外し号泣してしまう。この作品は夫婦仲が戻ることになるのだが、このイングリッド・バーグマンが泣いて席を外す。そしてジョージ・サンダースが追いかける。これらの行動は、有村架純が号泣しながらファミレスの外に出てしまう。そして菅田将暉が追いかけていく、といった行動と同じである。また、『花束みたいな恋をした』では付き合う前の自分たちをダブらせる若い子たちが出てきたが、『イタリア旅行』では白骨死体である。どちらも、今の自分たちにはないものを持った存在として現れている。

さて、映画を引用したことで「映画的」になるのだろうか。映画的という言葉は別の映像媒体(テレビ、CM、ミュージックビデオ等)「的」であることを否定できるのであろうか。映画はフィクション=嘘、なので私はよく嘘であること、嘘みたいな出来事が映画的である、といったことを書いていたりする。それが何年だか、映画を見ていて思ったことだ。でもそれは、映画のタイトルが示すように「みたいな」ものなのだろう。

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*1:日本のハードコアパンクメタルコア バンド。