つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーション、音楽のこと

こうあるべきを否定して——『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』

『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』では、主人公・竈門炭治郎が自分の首を斬り落とそうとするシーンがある。彼の仲間である伊之助は「敵に騙されるんじゃねえ!」と、彼の自決を止めるのだが、ここで首を斬り落とした/死んだとして本当に彼は死ぬのだろうか? と妙な感覚に陥った。もちろん、彼が下弦の鬼の攻撃を受けて、夢の中で首を切り自決することで現実世界に戻ったのは散々見ていたことである。しかし、彼らが乗る列車がどこへいくのかも告げられず、真っ暗闇のなかすごい速度で走っていくこと自体、夢のような話ではなかろうか。


劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 予告編第1弾公開 !!

よく言われることであるが、映画館で映画を鑑賞する/体験することは夢のようなできごとである。スクリーンに照射する光を見ている…といったクリシェを使うまでもなく、誰もが部屋の電気を消してベッドにもぐりこむように、映画館という空間は自分がコントロールできない暗闇を彷徨うことと同義なのである。

でも、少し待ってほしい。今そこで首を斬り落とそうとする青年は、鬼自身が見ている夢の出来事ではないのだろうか。結末まで鑑賞すればそうではないことはわかる。しかし、実際にこの下弦の鬼はこの戦いに勝利し、(無惨の)血をもらいさらに強くなりたいという「夢」を見ている。列車という横長の舞台装置を捨てて、夢という深層心理に舞台を置くのは何故なのだろうか?

  • 歴史を否定すること

はじめに言っておくと『無限列車編』は映画としてイビツな作品である。ここまでブームになるまでになった作品は、本編とは関係のない物語が映画として公開されるといったことが一般的なケースだ。私が子供の頃は『ドラゴンボール』や『クレヨンしんちゃん』などがこのケースだったと記憶している。現代でも『ONE PIECE』や『ポケットモンスター』などが引き継いでいる。しかし、本作は連続アニメ『鬼滅の刃』本編上の「続き」が劇場公開されるという、奇妙なことが起きている。そのため、一本の映画としては『鬼滅の刃』の物語は完結しない。

では、具体的な映画の内容に触れていこう。炭治郎とその仲間は「無限列車での被害が増えてきている」といったことを伝令され、煉獄と合流するために列車に乗る。舞台はこれまで映画史が幾度となく扱ってきた「列車」である。列車は敵/味方がどこに隠れているかわからないこと、特別席など仕切られた空間が存在し、ハラハラドキドキするようなサスペンスが描かれることが多い。また、ロバート・アルドリッチの『北国の帝王』やジェームズ・マンゴールドウルヴァリン:SAMURAI』などでは屋根の上でのアクションが斬新であったし、『トレイン・ミッション』でも、列車空間を上手く利用していたのが記憶に新しい。クラシックから現代映画でも引用しようとしたら、幾らでも出てくる舞台なのである。

さて、ここで『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』がどのように列車を演出していたか確認しよう。まず、炭治郎とその仲間は列車に飛び乗るなり、煉獄を探しに列車内を移動する。そこでは煉獄のみならず、一般乗客が何人も乗っていることが描かれている。彼らは煉獄と合流したのち、鬼に襲われることになる。ひとつの車両を使用した戦闘が繰り広げられるのだが、ここでは煉獄の強さが描かれており、炭治郎は加勢する暇もなく煉獄の強さに圧倒される。この狭い列車内で刀をどう振るのだろうか? と考えるも、戦闘はあっという間に終わってしまう。しかし、どうやらここでの鬼との戦闘は夢だったらしい。その夢を見せていた屋根の上に待ち構える鬼は、炭治郎たちが眠りに落ちたことを喜んでいる。

その後、彼らは目覚めて鬼に戦いを挑むが、煉獄を含めた炭治郎以外の仲間は、列車内に侵食する鬼の一部から乗客を守ることに徹する。ひとりで数両分も担当しなければならないため、その動きは目に見えない速度となり、もちろん、人が殺される/助けるのサスペンスのようなものは描かれてはいるが、時間を感じさせるものではない——スローモーションで描かれている——ため、ハラハラドキドキするようなものではなく、キャラクターの見せ場のように演出されている。つまり、映画史が求めてきた演出とは異なっているのである。

主人公が超人的な能力をもっているので生身の人間に求める演出ではなくなるといってしまえばおしまいなのかもしれないが、それでも先に挙げた『ウルヴァリン:SAMURAI』では屋根の上で列車ならではの演出をしていたし、『ジョジョの奇妙な冒険 5部』のプロシュート&ペッシの演出も思い出されたい。

列車という複数の車両がつながれた横軸(もしくは奥)の活用は、「眠り」という深層心理に入り込むことで避けられている。また、夢の空間で水面を見たり、キャラクターが水の底に沈み込むといった表現がされているように、列車という横に連なる舞台装置を否定し、縦方向への移動が描かれている。炭治郎が屋根の上で戦う鬼とのアクションシーンに関しても、横軸を活用したというよりも高く飛び敵を斬る、縦軸を意識したようなアクションだった。

そういった演出以外にも「深い眠りに——」といった台詞があるし、映画史が目指したサスペンスやスリリングといった演出を否定し、上弦を「夢」見る下弦の鬼が、高く飛んだ炭治郎の刀に骨(命)絶たれる、上下の主題によって形成されている。

それと上弦の鬼である猗窩座が出てきてからがわかりやすいかもしれないが、上下の主題の他に手前/奥といった構図が演出されていたことを思い出されたい。これは最初に煉獄が活躍するシーンにも言える。列車という横に長い空間を、手前の視点から奥にいる鬼を捉えて一瞬で移動し斬り捨てるというアクションがあった。また、禰豆子が鬼に捉えられてしまったとき、奥の車両から眠ったままの善逸が一瞬で鬼を斬り捨てねずこを救う、といったシーンもあったではないか。きわめつけは太陽光から鬼が森の奥に逃げていくといった行動。

総括するとこの物語(映画)では、鬼の弱点である太陽(上下、タイムリミット)を演出上高めるために列車という空間の演出を否定してまで、縦軸の演出にかけたと言っていいのではないだろうか。この『鬼滅の刃』の物語はここでは終わらないが、少なくてもこの「無限列車編」では鬼の勝利で終わる、ひとときの夢を見せられていたのかもしれない。