つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーションのこと

私たちが世界を視るということ——デヴィッド・オライリーの『Everything』と『Mountain』をプレイして

眠たい目をこすりながら騒々しい目覚し時計のアラームを消し、ベッド横のカーテンを開けると、真っ白な光が私を包みこみ「起きろ」と私を脅迫してくる。仕方なく起床し、コップいっぱいのお茶を飲み、ここ一年程度続けているフルグラとヨーグルトを食べる。そして、出勤するわけでもないのに、顔を洗い歯を磨き、一応襟のついたシャツに着替えて時計を見る。九時まで時間があることがわかると、適当な本をチビチビと読み始め、九時が近づくとちゃぶ台にノートパソコンを置いてシンクラにアクセスする。打刻を済ませ、定時前が始まる少し前に「業務開始します」と上司にチャットをし、メールに返信、他部門に業務の依頼など、あってもなくても変わらない座布団に座り仕事をする。さて、次はお昼休みだ。十二時になると一斉にチャットのラッシュとなる(省略)。「今日のお昼は何にしよう、夜はご飯ものだったから麺類にしよう」なんて考えて昼から仕事を再開すると、すぐに夕暮れがやってくる。幸い仕事がそこまで忙しいシーズンでもないので、朝の日差し、アスファルトを照らす強い昼の光、哀愁さえ感じる夕暮れ、とゆっくり時間経過を感じることができる。私が外出自粛で気づかされたのは、こうした時間の経過を肌で感じることの当たり前さなのかもしれない。

流行りのzoom飲みは終電がないので時計を気にすることはないけれど、それ以外の日常生活は全くメリハリがつかなくなり、暇をもてあそんで物足りなさを感じたりもする。仕事にありつけなくなった人もいれば、私のようにふわっとした時間を過ごしているような人もいる。立場は違うけれど一つ言えるのは、こうした時間が無期限に継続されてしまえば、ほとんどの人が窮地に追い込まれるに違いない。それは今、健康な私を含めて。

寝ても覚めても変わることのない断続的な夢のような時間に生きている中、現状を少しでも変わったものにしなければならないと思い、人を避けて軽く散歩をしたり(本当はやめるべきなのかもしれない)、毎日りんごを食べて見たり、今まで読めなかった本を読んだり、ニンテンドースイッチでゲームを買うなどをしてみた(今日現在ニンテンドースイッチamazonでも品切れを起こしており、昨年ノリで購入していたのはラッキーだったなと思い知らされる)。そして最初は「つけ麺なのかな?」と思っていた「あつもり」が、実は『どうぶつの森』の最新作『あつ森』だったことに違和感を感じ得なかったのである(そうそれは『宇宙よりも遠い場所』が『よりもい』と略されるのと同じような違和感)が、そんなことはほんの些細なことである。何よりも、この自粛生活において朗報だったことは、2017年の新千歳国際アニメーション映画祭でアニメーション映画として上映されたデヴィッド・オライリーの『Everything』が、ニンテンドースイッチで発売されているではないか! と気づいたことである。

www.youtube.com

デヴィッド・オライリーはもともと短編アニメーション作家としてデビューし、当時から今に至るまでリアルさを求める3DCGアニメーションに対して、あえて3DCGアニメーション感を残した短編アニメーションを制作し、大変評価された作家である。*1そして、彼はインディーゲームを作るようになるのだが、『Everything』はゲームなので「映画祭に出せるの?」と思うかもしれないが、プレイ動画を編集して映画祭に出展している。当時、映画祭で鑑賞したときの印象は、ゲームというかシミュレーション的なもの? と思いながら見ていた。プレイヤーは、動物にも木にも島にも、しまいには宇宙にもなれるし、それより小さい木々や細胞にまで身体を乗り換えることができる。視点の複数性というか、あらゆるものの見え方に感動したし、尚且つアラン・ワッツの語りが入ってくるのだが、妙にエモく聴こえてしまって一発でノックダウンされたのだった。

実際にダウンロードしてプレイしてみると、プレイ動画だけではわからなかった操作性にも気づかされる。動物が群れることは当たり前のように思っていたが、例えば自分が木々のときに群れることができるコマンドを入力すると、周りの木々も一緒に行動することができる。動物は走って移動するのではなく、その形を保ったまま回転するように移動したり、この辺りは『アニメーションの基礎美学』から続いているオライリーらしさを感じた。私は『ファイナル・ファンタジーⅩ』で止まっている身なので、ゲーム史からどうこう言えることはないのだけど、プレイしたゲームの中でいうと64が出た時のマリオをやっている時のような感覚があった。箱庭の中で視点を変えられたり、初期CGのような無機質なフィールドはどこか懐かしさも感じさせる。

そして、もう一つスマホで彼の『Mountain』というゲームをやってみた。こちらはゲームを始めるといくつかの質問が出てきて、絵を描いて回答すると自分の山が宇宙空間に誕生する。画面のスワイプで山よりの視点にしたり、宇宙空間から見た山を画面に映すことができる。『Everything』もゲーム性というか、操作して遊ぶということが限られるものだけど、『Mountain』はさらに限られた操作しかできない。プレイしていると宇宙から、宇宙船や樽や飛行機などが落下してくる。落下して山に突き刺さり、それらをクリックすると音が鳴り、さらに長押しすると移動させることもできる。「落下」といったけど、視点が山ではないので落下というより「直撃」って感じだ。雪が降ったり季節も巡るのであるが、気がつくと直撃したそのものたちはいつの間にかに山に吸収されていたり、気づかないうちに表面からなくなっている。正直なところほとんど「見る」に徹するゲームであるが、クリックすると音がなる鍵盤のようなものも実装されて、それで音遊びのようなものは多少できる。飛来してきた物体を触ったり、その鍵盤で遊んでみたりしていると、「山」そのものを見ているというよりも、「山」を取り巻く環境——山に視点を近づいていくと聞こえる環境音や、宇宙空間での音、鍵盤が響く音——を見ているゲームなんだと気づかされる。プレイしたままスマホを置いておくと、環境の変化にびっくりするし、『Everything』と同様にオートプレイの楽しさみたいなものがある。

このふたつのゲームに果たしてガチ勢がいるかは不明だが、安価で購入できるし気づきがあるので、この機会にプレイできてよかった。デヴィッド・オライリーはアニメーション映画を作っていた時から一貫して、視点の変化を描いていたように感じる。映像のメタモルフォーゼではないけれど、このゲームもプレイする側に何らかの変化を促すし、プレイ前後で視点がさらに増えたような感覚がある。自宅での自粛が継続される中、日常に気づきを発見したように、様々な視点で世界を視れることを忘れないで生活をしていきたい。

*1:代表作である『Please say something』や『The External World』を参照されたい。また、彼の論考である『アニメーションの基礎美学』を読むと理解が深まるだろう。