つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーション、音楽のこと

どこか浮世絵離れしたできごととしての——『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)

自身の映画記憶から引用に次ぐ引用、音楽的センス、『パルプ・フィクション』で見せた時系列操作といいDJとしてのタランティーノの総合的な一本になった『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』シャロン・テートがレコードプレイヤーで音楽をかけるように、自分のレコード棚から持ち寄ったレコードを次々にかけながらも、そこまで強烈な音楽の印象を残さないのは場数を踏んできた慣れだろうか。そうと思えば、シーンとシーンがスタントマンを演じるブラッド・ピットの運転するキャデラックや、マンソンファミリーが乗る馬であったり、マーゴット・ロビー演じるシャロン・テートの綺麗な脚が軽やかに街を行き交う移動の様子で、映画が滑らかに繋がれていく。そうかと思えば、台詞を忘れてしまい自暴自棄になるディカプリオが苦戦していると、天使のような子役にさらっと救われてしまったりと、シーンとシーンを繋ぐDJタランティーノの編集は絶好調だ。

以下、結末に触れています。

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今回主演はレオナルド・ディカプリオとブラッド・ピッドのダブル主演になるが、主演俳優/スタントマンの関係性や下り坂のスターを描いた本作においては、ディカプリオよりもブラッドピットの方がどうしても印象に残りやすい。どちらかといえばディカプリオが身体的な側面よりも演技派の俳優であることや、身体的能力の高いブラッドピットに運動面を全面的に任せたキャスティングだったことも関係しているだろう。そして俳優/スタントマンといえど、彼がスタントマンを担当しないときのディカプリオの様子はブラッドピットは知らないし、ディカプリオが知らない間にマンソンファミリーとの一戦があったり、共有しない事実もお互いに保有していることからいっても、本作が日陰の物語であったといえる。

それにマンソンファミリーがディカプリを殺しにきた時に、ブラッドピットは「奥にひとりいる」(確かこのようなニュアンスだったと思う)と答えるが、ディカプリオの存在を明かさないし、彼が犬と共同しマンソンファミリーをボコボコにしているときにディカプリオはプールの上で何知らぬ顔(実際に何も聞こえていない)である。映画と同様に身体性がものをいう格闘シーンではブラッドピットにバトンが手渡され、唯一ディカプリオが「熱い」といいながら使ったことのある、火炎放射器を使用するシーンのみ彼が担当した。

また、『イングロリアス・バスターズ』(2009)でも歴史(というか出来事といった方が正確かもしれない)を修正していたように、本作においてもマンソンファミリーによるシャロン・テート殺人事件も修正が入る。まるで映画をサンプリングして編集するかのように、自由に歴史を書き換える手腕はタランティーノお手の物といったところだろうか。どうみても、マンソンファミリー襲撃シーンがいちばん虚構っぽいコミカルなシーンでもある。侮辱されたと思って決闘を挑むブルース・リーとブラッドピットの一戦も虚構として機能している。しかし急に西部劇の世界に入ってきてしまったかのようなマンソンファミリーの巣食うアジトに深入りするブラッドピットのシーンは、いちばん生々しいものだった。そういったコミカルなシーンとサスペンスフルなシーンが共鳴して、いいバランスで成り立った映画だと思う。

ディカプリオがナチを火炎放射器で焼き殺すという自身のセルフオマージュも展開していることからいっても、自己言及的な作品である。それは彼が過ごした時代が舞台であり、彼のパーソナルな側面が十分に出ているからでもあるだろう*1。しかしながら、蓮實重彦が「勝った負けたの話ではない」と語っているように、ラストのカタルシスを発端にこの作品に言及しても本質を捉えそこのえるのではないか、とも感じる。ただここでの蓮實の発言は、フランスの批評家たちが「カウンターカルチャーを敗北させた」といって本作の評価を与えなかったことに対しての政治的な言及も含まれているような気もしているので、全てを鵜呑みにするわけにはいかないなと感じてもいる。

「たしかにチャールズ・マンソンの手下たちは最後に殺されるけれども、ではあの映画で誰が勝ったのかといえば、誰もいないでしょう。クリフがヒッピーたちを殺したところで、彼が職を失ったという現実は変わっていないし、救われたリックも、あのあと映画界で成功するかどうかはまったくわからない。すなわち、カウンターカルチャーといういっけん歴史的な題材を、歴史的な意義をいっさい問題にしない仕方で撮っているわけです」(ユリイカ2019年9月号「『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は勝った負けたの話ではない——タランティーノと歴史性」より)

あの歴史修正的なカタルシスを感じたときに、そのあとディカプリオは成功した——と思ってしまいそうになるが、よくよく考えてみるとマカロニウエスタンを4本撮影して帰ってきた飛行機の中で、彼らのその後の人生について語られていたことを思い出されたい。「見続けることをやめる」などと批評家たちを驚かせてきた蓮實であるが、何も変わっていない。映画に映し出されていないできごとを妄想するなんてしていないことが、改めてわかる発言じゃないだろうか。入江哲郎との対談の最後でケリー・ライヒャルトでマウントを取りながら、タランティーノまだまだだぞ、と下げて上げてまた下げるジェットコースターのような会話を披露する、あくまでその変わらない政治的な態度に振り回されっぱなしだ。

話がそれてしまったので映画に戻すが、この映画特段マンソンファミリーやシャロンテート殺人事件について知識がなくても楽しめると思う。ここにタランティーノの曲者っぷりが発揮されているのだと思うが、まず物語的に行っても本作のマンソンファミリーによる襲撃のくだりは、悪役が家に忍び込んできて逆に返り討ちにしてしまうというカタルシスに満たされる。それにブラッドピットの軽やかな体術やまるで冗談のような犬の攻撃、そしてディカプリオの火炎放射器といい全てが軽やかに虚構として楽しめてしまう。それくらい軽薄さが楽しい作品であるので、軽い気持ちで見に行けばいいと思う。

もしかしたら、シャロンテート殺人事件についてすごく知見を持ち合わせているものが見れば、ありえなかった未来について妄想をして涙してしまうかもしれない。しかし、付け焼き刃の知識ほど「過去」に縛られてしまうことはないだろうし、ここから生まれる涙や妄想は同時代を生きた人々が感じて楽しめばいいのだと思う。映画は絶え間ない「現在」のメディアであるからこそ強いのだから。

最後にだけど、さすがにシャロンテートの足の裏汚くね?(笑)

パルプ・フィクション (字幕版)
 

*1:この辺りは『ユリイカ 2019年9月号』(青土社、2019)のタランティーノのインタビュー「一九六九年のハリウッド——あるいは……失われた純真」を参照されたい。