つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーションのこと

『天気の子』についての覚書

『天気の子』なぜかIMAXで視聴。大きすぎるスクリーンだと視野的にカバーできない瞬間があるので、通常のスクリーンでまた見るかも。以下覚書。1行目からネタバレなので予告でも挟もう。

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冒頭のモノローグといい、世界のために誰かが人柱になっている(正確な出来事は違うけれどニュアンス的な意味合いで)というのは、『空のむこう、約束の場所』(2004)における沢渡佐由理を連想させる。しかも、『君の名は。』(2016)の彼/彼女らが出てきてくることで、これは過去に対しての清算? なのか、と。『君の名は。』において出来事を捻じ曲げてしまっても、再び出会うことを選んだ彼/彼女らの起こした出来事について、『天気の子』で天災として再び姿を現す(2人を引き離す)。前作における、変電所の破壊は自らの目的を果たすための行為として表面的に処理されていたが、本作において陽菜が人柱としてその罪を被り——といったことを主軸としていたので、なんとなく過去における自分の見つめ直しにも思えた*1。世界のバグを引き起こした罪の清算的な印象を受けた。

少年(帆高)が勘違いをする役回りに徹している。彼は須賀と夏美の関係を愛人と勘違いしているし、陽菜にも年をごまかされている。須賀が最後に彼にいう「自惚れるなよ」が示唆的な言葉で、彼は出来事が全て彼の選択によって起こってしまったと思っている。確かに陽菜は一時的にいなくなってしまったし、あの鳥居をくぐった瞬間に空の上から落ちてくるシーンになり、確かに陽菜を地上に連れ帰ってきた。でも、実際のところ「100%晴れ女」は、たまたま晴れる瞬間に陽菜が願う仕草をしていただけなのかもしれないし、失踪したときには彼女は鳥居で横たわっていただけなのかもしれない(あの瞬間不在には見えているが)。つまり、本作ではキャラクターに自分の選択したことに対する罪意識がつきまとっているということ。これは世界の法則を捻じ曲げてしまった、『君の名は。』への自己反省的な作品なのかもしれない。映像作品(アニメーションなら尚更)における「映像と音」のありかた——誰かが誰かと話しているショット(一人しか映っていない)と、また別の誰かが誰かと話しているショット(ショット/リヴァースショット)を交互に繋いでいるけど、本当に彼と彼が話しているの?——みたいな、モンタージュによって接続されているけど、その前に切断されているよね。それを無意識に接続しているように見ているよね、みたいな。

それと帆高の地元でのバックグラウンド的なものを描かなかったのがよかった。東京に出てきたのは光に導かれたから。それだけでグッときてしまう。陽菜もまた晴れを願い、光を見上げて手をかざす。この「見上げること」、「手をかざすこと」というモーションが繰り返される。光への憧れが祈りのモーションを繰り返させる。手をかざしたところでつかみようのない光は、彼女自身がつかみようのない水になってしまうこと——つながりたくても、つながれない存在になってしまうことを暗示しているようでもある。でも、雲が大地を包み込むように、そして私たちが光を求めるように、この空(世界)はどこかの知らない誰かとつながる可能性を秘めている。だから彼も空へ向かって手を掲げるし、彼女の手をつかみ再び出会うことができる(彼岸、煙のあたりもこの辺りと絡まる)。これはフィクションの肯定だ。

君の名は。』でやかましかった音楽も、よくわからないけど『天気の子』だとそこまで気になることもなかった(それでも多かったかな)。ただ、120分切っているにもかかわらず体感時間が長かった。おそらく構成上の問題と、どうしても活劇にならないといった2点がある。まず、冒頭のモノローグは全てカットでもよかったように思える。後々に陽菜の母親の話が出てきた時に同じカットを出すのは野暮だろう。だったら母親の話のときに絞った方が効果的。カットしてその次のシーンに時間をかけるべき。あれで印象的なシーンを演出できているとは思えない。宙吊り感がない。それとライター業のバイトと、晴れ女ビジネスで2回も音楽流して時間の経過を早送りで、ってパターンはさすがにいかがなものかと。

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多分、新海誠の時間感覚ってのはトレーラーがいちばん合っているのであろう。CMくらいがいちばんちょうどいい感覚。このトレーラーだけ見るととんでもない傑作に思えるんだけど、〈映画〉という枠組みにのってしまったときにどうしても活劇的な心地よさを生み出すことができない。メジャー枠で取り組むより『空のむこう、約束の場所』あたりの時代のほうが適任な気がする。公開規模(ポピュラーな映画という意味で)的にね。宮崎駿とは性質が全然違うからポスト宮崎駿にはならない。それと銃が出てきているのに緊張感が生まれない。1回目は予告の方がいいし、2回目に至っては活劇の道具として有効に扱わない。銃が出てくれば弾道がわかるように描いて欲しいし、それによって、人物のモーションが豊かに描写されるべき。願望だけど。

ただ恐らくこれは考え方の違い。彼の撃った弾は空に向かって飛んでいく。銃弾は彼らを見上げることを要求し、地上を照らす光への返答みたいなものだ。だから、空は雨を降らせる。「見上げること」で作劇につなげている。新海誠はそもそも活劇的なものを目指していない。でも、タックルはすごくよかった。あの子達はタックルをするスポーツを志した方がいい。タックル強すぎモンダイ。

とか書いてみながらも、本田翼はたまらなかったし、陽菜もかわいかったので満足でした。とりあえず以上。

小説 天気の子 (角川文庫)

小説 天気の子 (角川文庫)

 

*1:彼女が起こした爆破はどうだったんだと思う気がしないでもないが、予測不能の出来事であったと一応は説明がつくので。