つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーションのこと

映画雑記03

真夜中のひと気のいない夜の路線が映される。そこに置かれたカメラはしばらくの間そのまま静止する。すると列車の暖かなヘッドライトの光が見えてくるとガタン・・・ゴトン・・・といった音とともに、ホーム(画面)手前から奥に向かって電車が到達する。実に静かなオープニングと列車が奥からか、手前からか、と私たちを宙吊りにさせるようなサスペンスフルなショットから始まる『嵐電』は、森見登美彦が描く摩訶不思議な京都ではなく骨太な映画だったことが幸いだったというべきか。たまたま京都の撮影所で映画を作ることになった俳優、たまたま撮影所に弁当を届けることになってその俳優に気に入られる女性、路線の不思議話をネタとして出版しようとする先生、修学旅行で訪れた京都で恋に落ちる女学生、そして恋される男子学生。撮影所に巻き込まれた女性はまるで何かに取り付かれたように演技する(右への横移動が気持ちいい)。しかし彼女は女性は俳優に電話番号を聞かれても答えない。「駅で待っている」とだけ残し去っていく。脚本読みをしながら仲むつまじく駆けていく。彼女に台本を渡したままに気づいた彼は彼女の家の近くの駅で夜まで彼女を待つ。まるでストーカー扱いされた彼から逃げようとする彼女。彼女のつかず離れずの態度によって距離が生まれ、同時に揺らぎを与える。両者のバックグラウンドに対する語りが少ないからこそ、より際立つ。細部を拾ってみると骨太の映画だと感じるのだが、私のバイタルが悪かったのか、あまりノレなかった。まあ、ノレなかったなんて言葉は私の言い訳にしかすぎなくて、映画にはまったく関係のないことなんだろうけど。しかし『ゾンからのメッセージ』はみたいのでどこかでかからないものだろうか。

やたらとスケールの大きさを誇張しようと画策する『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』。人間の顔ドアップショットでつながれるドラマは、怪獣を使って世界を清算しようともくろむ勢力と、それを阻止しようとする勢力といったよくある対立が始まり、世界の神話やら何やら暴いてやろうなんて・・・(しまいには地底のゴジラの家なるものまでにたどり着く)、と誕生から終わりまですべて語らなければならない! といった退屈な代物でとにかく残念。全編ほとんど曇りもしくは雨のような真っ暗なシーンであるし、人間起点な物語にしようとするあまりか、ほとんどの戦闘が人間から見上げた怪獣たち(これであれば単なる天災と変わらない)といったつまらない描写に陥る。怪獣が人間を殺すシーンなんて貧乏くさいし、人間なんて勝手に死んでいてください・・・といったところだ。オマージュも形だけやりました、オタクでしょ、的なノリにうんざり。デストロイアは日本の細身のゴジラだから効果が出るのであって、あんなマッチョのゴジラが赤くなったところで得るものはなにもない。

男1:女2で車移動といえば『カルフォルニア・ドールズ』を想起するわけだけれども、あまり面白いとは思えなかった『さよならくちびる』。たとえば、工場で働いている時に特に理由も告げずに小松菜奈に「私と音楽やらない?」と問いかけるシーンや、カレーを食べて思わず泣いてしまう小松菜奈など、何かしらの理由がありそうにも明確に語られない。この辺りはとても好みだったし、小松と成田がレコ屋でレコード鑑定しているシーン(現実では起こりえないだろう…)からの流れはとてもいい。ただライヴのときに語ったホームレスのおじさんのエピソードや門脇の実家でのエピソードを映像でもう一度見せるあたりは、過度な印象を受けた。それと帰路中の車窓からの風景をサウンドスケープとともにたら〜っと流してしまう感性はどうにも苦手。