つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーション、音楽のこと

セバスチャン・ローデンバック『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』(2016)

高校か大学生の頃だったろうか。それまで「グリム童話」といえばディズニー長編アニメーションの『シンデレラ』や『白雪姫』などの作品くらいでしか知見がなかったのが、何が始まりだったか「本当は怖いグリム童話」の流行で『シンデレラ』の姉たちはガラスの靴に足を入れるために足首を切り落としたとか、そういった類の話が随分と聞いたような気がする。それはマニアな趣味であったインターネットが誰しも使えるようになり、小ネタ的なものが流行したように思える。当たり前であった認識が、いっぺんにひっくり返されるというものはなんとも言えぬ衝撃を伴う。

ではアニメーションでいえばどうだろうか。普段テレビアニメを見ている方であれば顔の割に目が大きく可愛らしい顔をした少女が出てくるもの…また、どんなに攻撃を受けても死なないキャラクター、などを想起するかもしれない。しかしそれは常日頃に裏切られ思ってもない方向に進むことはないだろうか。『魔法少女まどか☆マギカ』の3話あたりが代表的なものかもしれないが、私たちはアニメーションを見る上で自分の恣意的な認識で見ているにすぎないのかもしれない。『リズと青い鳥』における傘木希美と鎧塚みぞれの童話「リズと青い鳥」のリズと青い鳥を、それぞれ自分に重ねて見てしまっていたときのように。

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さて、『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』はそのような認識からかけ離れた手法を用い制作されているにもかかわらず、まるでいつもと違わないテレビアニメと同様に表現に騙され、なんとなしに映画の世界に溶け込んでしまう。予告を見るとわかるように、本作はすべて水彩画調のタッチで描かれている。テレビアニメのように背景とキャラクターの違いがわかりやすいといったわけでもなく、すべてがそのタッチで描かれレイヤーを重ねている。そのため、キャラクターがゆらゆらと消えかかったり、逆に感情的なシーンではさらにレイヤーが重ねられることでシーンの説得力をもたせているようだ。

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本作は80分のアニメーションであるが、セバスチャン・ローデンバックはひとりで制作したらしい。しかも、その期間はなんと1年間。

 

cinemore.jp

 

なぜ制作たったの1年で制作が可能だったかというと、「クリプトキノグラフィー(暗号描画)」という制作方法を編み出したからだという。絵を書いている段階ではなんの絵かわからないくらいに簡素化された状態であるが、それを動画にするとどうだろうか? まるで生き生きと人々が生きているように見えてくるではないか。*1 またフィクションの強度が強い「グリム童話」を扱ったナラティブ・アニメーションだったことも功を奏しているように思える。いくつもの物語に変奏されるわかりやすい物語だったために、鑑賞者が漠然と「これはこういうことだろう」と自分たちの持っている知識で描かれていない部分を補完しやすい環境を作り出す。

物語は「大人のための」と謳っているように、少女に起こることは残酷なことだ。父親が悪魔に騙され黄金を手放したくないのであれば娘をよこせと脅される。しかし心身ともに清い存在である彼女には悪魔は手が出せない。そこで娘を汚すために父親に手を斬り落とせと命令する。

その描写は絵であるはずなのに——ただ手を描かなければいいだけなのに——まるで本当に目の前で切られてしまったかのように迫ってくる。それは的確な劇伴も補助しているかもしれないが、実写よりも痛々しい表現になっていた。似たように鑑賞者に追体験を与える表現といえば、彼女が悪魔から逃れていき梨にかぶりつき果汁が溢れ出して彼女の喉元まで果汁が滴るシーンがあった。まるで自分までくすぐったくなるような体験を与える。本当に簡素な絵なのだろうか? と疑いたくなるかのように。

簡素化された絵であってもまるでそのキャラクターが死んでしまうとこちらまで悲しくなる…といった体験は共有された認識にあるだろう。*2 ドン・ハーツフェルトのビル三部作において単なる絵である棒人間が幻覚、記憶喪失、そして死に至るまでは本当に私たちの感情に生々しく訴えかけくる。また『ビリーの風船』では風船が人間に暴力を与える描写が続いていくのだが、本当に”痛い”と錯覚するような追体験を与える。先に書いたように簡素な絵であっても鑑賞者が絵を頭の中で肉付けすることで単なる絵に説得力を与えているのだ。『手をなくした少女』における手を切断する描写に関しても同じような恣意的な認識が働いていると考えられる。

しかし『手をなくした少女』ではそれだけではない。今までは画面上で本当に生きているものとして表象されていると書いてきたが、それが全く通用しないシーンも存在する。それは完全に”絵”であると認識させる。

少女は悪魔の追ってから逃れ、ひょんなことから王子と結婚することになる。そこでは彼女のお世話係をすることになる庭師が絵を書いている。それまでは情報量が少ないクリプトキノグラフィーで描かれていたにもかかわらず、普通の絵画のような絵——まるで子供が絵を書いたかのように——ではないか。それは明らかに意図されたショットだ。簡素な絵の中に生々しさを見出していた私たちの目の間にそれは確固たる絵としてそこに立ちふさがる。今まで見ていた”絵”よりも情報量が多いのに!

この思わずハッとしてしまうショットは、デヴィッド・オライリー『The External World』を見ているような感覚ではないだろうか。*3

 

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また、本作において彼が名付けるクリプトキノグラフィーといった手法が作品自体に合っていたのもここまでの水準に引き上げているのだろう。水車小屋の裏にある木の上にいた少女が、黄金の川を得るとともに手を失う。父親に切断された手によって自分の赤ちゃんを落としてしまうし、それによって困難な生活を要求されるが、その困難さが彼女に起源をたどること(水源をたどる)に結びつけ、映画をスリリングなドラマに演出する。*4 また捨てられた黄金の手は水車小屋のある実家に辿りつくし、王子はその手を見つけ、彼女の本当の手を発見することもできる。物語が水車小屋から始まったように彼女は起源をたどってまたもと通りに手を再生する。まるでゆらゆらと振動しているようにアニメートされるその手法が、彼女たちが心身ともに揺らぐことにも関係してくるし、『ソング・オブ・ザ・シー』のような起源をたどる冒険をさせてくれる。

先に少し触れたが劇伴も素晴らしかった。アヴァンギャルドに聞こえたが、感情面に寄り添うような一般的なスコアのつけ方もあり、今年であれば『リズと青い鳥』や『DREAMLAND』のように作品がその音楽を必要としている、かのようなスコアになっていたと思う。いづれの項目も今年見たアニメーション映画の中でもズバ抜けていたと感じる。New Deerが「おとぎ話の向こう側へ——」といったコピーをつけているように、たとえおとぎ話でも、簡素化された絵がキャラクターでも鑑賞者にショックを与える作品だろう。まるで現実と虚構の境界線を曖昧にするかのような——。

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*1:土居伸彰の原形質性の解釈(『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』)も合わせて参照されたい。

*2:デイヴィッド・オライリーの『アニメーション基礎美学』やアニメーション研究者のDIESKEの『マンガとアニメふたつの「宝石の国」読解 マンガ/アニメーションの視覚表現を中心に』(アニクリvol.7.5収録)を参照されたい

*3:このあたりもアニメーション研究者DIESKEの『マンガとアニメふたつの「宝石の国」読解 マンガ/アニメーションの視覚表現を中心に』(アニクリvol.7.5収録)を参照されたい

*4:アニメーションの切断/接続の関係は、『傷物語』を踏まえると考えやすいかもしれない。また拙稿で恐縮だが鉄血にして/熱血にして/冷血の吸血鬼 ー分断され接続する「傷物語」について』(『アニクリvol.06 新房昭之西尾維新、『傷物語』完結記念号』収録)に切断/接続についての論考も寄稿している。