つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーションのこと

上田慎一郎『カメラを止めるな!』

先日より拡大公開されたことで何とか『カメラを止めるな!』(以下『カメ止』と略す)を見に行けた。TOHOシネマズ日比谷の大きなスクリーンだったが、それでも満席になっていたので配給会社はウハウハだろうな、と思いながら鑑賞した。確かに人も入っていたし後半は会場中が笑っていたのだが、それは映画メディア固有の笑いというよりも、違和感だった映画前半部分の種明かしによるものであり、これが例えば映画ではなくテレビでもよかったであろう。舞台から着想を得ているとのことなので、映画の時間感覚とは違った方法で作られている。いや、確かに「映画」として公開されているので映画で間違いはないのだが、映画固有のものではない。ただ間違えてならないのは「映画」といったフォーマットではなくても、映画を感じることはあるということだ。

以下より作品のネタバレを含むためご了承ください。

 

例えば東海テレビのドキュメンタリー番組は大変面白く『ホームレス理事長』『ヤクザと憲法』など、映画としか思えない作品もある。(実際に映画館での上映もされている)また『カメ止』は自主制作および低予算で話題となったが、低予算といえば心霊ビデオもまさに「映画」としかいえない作品も存在する。また、『カメ止』前半部はフェイクドキュメンタリーの要素が含まれており、心霊ビデオ作品との親和性も高い。

映画/非-映画の差異はクオリティでもなんでもない。そもそもクオリティという言葉は芸術作品に使用されるに適切ではない。制作に100億円かかろうが、300万円しかかからなかったろうが、どちらも映画に変わりはないのである。制作費という言葉は政治的な活動に使われるだけであり、映画の面白さに何も影響をもたらさない。そもそも昨今「映画」の定義はとても曖昧だ。

サイレント映画からトーキー映画の移り変わり、カラー映画の誕生、そしてデジタル化*1によって、映画を取り巻く環境が大きく変わっている。もはや映画館で上映されるものが「映画」であるといった定義も通用しないだろう。Netflixをはじめとして動画配信によって自宅で映画を楽しめる時代。映画館で映画鑑賞するよりも、自宅で映画を見ることがリアル*2だ、といった意見もあるだろう。映画館で公開されるものだけが映画ではない、自主制作であってもそれは映画だ。

長い前振りだったが、『カメ止』も映画といえば映画だ。ではなぜ私が<個人的>に映画ではないような印象――映画ではないというよりも、映画的な体感を受けなかったといったほうが正しい――を受けたのか。第一前提として映画は確固たる虚構として存在し、鑑賞者の虚構と現実が曖昧になるような、私たちの生活圏を脅かすような体験を与えてくれなかったからだ。

簡単にこの映画の筋書き(構造)について描くと、ゾンビ映画を作っていると撮影クルーが本物のゾンビに襲われてしまう。そのシーンはワンカットの長回しで撮影されているが、途中でカメラにゾンビの血しぶきがついたり、それを拭くシーンがあるなど、どうも様子がおかしい。そして「One Cut Of The Dead」表示されまるで映画の幕引きを思わせる。しかしその後、画面はワンカットで撮影された映像とは違い、カメラが意識されず、ルックを変えて普通の映画のような形式で撮影されている。どうやら先ほどの映像は新しいテレビチャンネルのオープニング作品であり、生放送で公開されたものだったらしい。なるほど、長回しワンカットで撮影される必然がある。どうもおかしいシーンがあったのも、どうやら生放送で公開しているのでハプニングがあったようなのだ。そのハプニングシーンもすべてそのあとの舞台裏シーンで回収されるといった仕組みになっている。

これの何が映画ではないというのだろうか? いまさら長回し+ワンカットが有効ではないとはいわない。先に事例を出しているように、デジタルカメラの発明によってワンカットの長さを克服することができた。そこで長回しの有効性をいちばんに獲得したのが心霊ビデオだろう。『ありふれた事件』(1992)に影響を受けたといわれる白石は、自主制作映画を経て『ほんとにあった!呪いのビデオ』シリーズで経験を積み、今では右に出るものはいないくらいフェイクドキュメンタリーの制作をしている。特に印象深いのはニコ生を発端として映画ファンにも普及した『コワすぎ』シリーズだろう。特に4作目の『真相‼︎トイレの花子さん』(2012)では時空を超える長回しを披露している。*3

心霊ビデオおよびフェイクドキュメンタリーは、POVで撮影されることにより、カメラ自身が身体を得ることになる。撮影者の体験を鑑賞者が追体験できるといったこと。それにより、「恐怖」を与えることが主題であるホラー映画で広く採用された。特に一般人が投稿してきたていでもある心霊ビデオで効果を得られた。作り物とわかっていながら、本当の恐怖を味わう。2008年には『クローバーフィールド』が大ヒットしたように、POVは臨場感生生しさを味わうにこれ以上ないフォーマットだった。しかし『カメ止』ではそういった身体に与える体感といったものを映画の中で否定してしまう。

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このあたりはunuboreda氏が「説明と秩序立てという最も映画的でない手法によって文字通り悪魔祓いされてしまうこととなる」と書いているように、『カメ止』の後半種明かしは映画としてもっとも輝かない方法を取ってしまったといえるだろう。映画が答えあわせで終わって、なぜ面白いといえるのだろうか。もちろん、ただ謎めいていればいいといったことでは決してない。現実-虚構が揺らぐような映画体験。映画が映画として輝くような映画内映画の巧みな演出。そんなものが1秒でもいい、一瞬でもいい、身体を震わせるような体感を与えてほしい。映画が現在に向かわず、過去に対する説明で終わって何がいいか。制作側のコントロールから逸脱するような瞬間が見たくないのだろうか。

本作のプロットはそもそも映画として映えるか? といえば逆の素質をもった作品だったといえよう。「One Cut Of The dead」が終了してから、ネタバレパートに至るまでのリズムの違い。フェイクドキュメンタリーが目指したライド感から一気に速度を落とす。状況説明というものは時間が止まってしまうのだ。だから90分程度の上映時間でもまるで2時間以上あるような映画のように感じる。押井守が『うる星やつら オンリー・ユー』(1983)で作品が「映画」でないことに悩んだ時、出崎の『劇場版エースをねらえ!』(1979)をなんども繰り返し見ることでアニメを映画にする方法を学んだという。彼が見出したのは「時間」の概念だった。

テレビアニメが映画を目指したときにもっとも考えられたのは「時間」と言った概念であると考えられる。テレビアニメとアニメ映画の違いは画面の大きさもあるが、まずは時間だった。テレビアニメ的な時間感覚で映画を作ってしまうとペース配分が随分違う。出崎は「繰り返しパン」「ハーモニー」「入射光/透過光」などの技術を使うことで、固有の時間を演出した。実写と違い時間を創出する必要があるアニメーションにおいて、考察されて実践されたのが出崎演出だったということだ。押井はその概念(効果)を知ることで『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)を成功させた。単純に出崎演出を表面上に真似するのではなく、時間を考察した結果生まれた作品であろう。

映画においては時間は一直線上にしか進まない。小説であればそれぞれ個人の読書スピードによってコントロールされる。だから、どんでん返しや叙述トリックも万人に効果を与える。(もちろんトリックに引っかかるか/引っかからないかは別として)辻褄合わせの過去を映されたとしてフィクションとしての強度は保たれないだろう。此岸/彼岸の揺らぎこそが映画に必要とされる感覚ではなかっただろうか。映画の笑いは運動に結びついて欲しい。ただ論理的に笑えてしまうなんて映画に必要ない。映画のマジックはこんなにも予定されたものではなかったはずだ。そんなことで私は『カメラを止めるな!』を面白いと思えなかった。

*1:サイド・バイ・サイド』(2012)参照

*2:ここでのリアルは身近といった意味に近い。例えばVHSブームに少年時代をすごした世代にも映画館よりもVHSで映画を見る。または家族そろって日曜洋画劇場を見るという体験のほうが身近だったりする。

*3:実際には擬似ワンカット。