つぶやきの延長線上 second season

映画、アニメーション、音楽のこと

吉田喜重『秋津温泉』(1962)

戦時中、彼は死に場所を求めた。しかし、そこで彼は生きることを見出してしまった…

北千住のブルースタジオで35㎜でかかるということですかさず『秋津温泉』を見てきた。劇伴が大げさだったっけな?と思いながらも、久々に見た『秋津温泉』は格別な体験となった。

メロドラマというよりも「死」に場所を探していた長門と生き生きとした若い娘を演じる岡田茉莉子の対比構造から、それが逆転するまでの物語であり、それが果たして恋愛感情か?と問われるとそうでもないような気がした。

岡田茉莉子長門に惹かれたのは、彼女自身がそもそも秋津温泉にいたくなかったことにある。事情があってしょうがなくここにいることになったに過ぎない。それと違い、長門は最後の地を秋津温泉に見出した。今にも死んでしまいそうな彼を看病し、長門に生かす道標を与えてしまった。ここの一連の演出が冴えているのだけど、岡田茉莉子が道端で終戦のラジオ聞くときに、「何言っているかわからない」といった調子で場所を移動して学校の校庭で兵隊たちの行動、すなわち運動を見ることで終戦した、といった事実を理解させる。実際のところ音声も聞こえてくるが、岡田茉莉子が知覚するのは兵隊たちの運動であり、その運動に伴って彼女も爆走してしまう。こぼしたお米を拾いながら旅館までまっしぐら。そして、長門がいる離れまで行って外を見ながら号泣してしまう。あくまで岡田茉莉子はその場所で泣いているのであって、長門に抱きついたりっていう行動を取らないんだけど、長門は泣く岡田茉莉子のところまで行って彼女を抱く。

岡田茉莉子の虚無感漂う瞳がいい。川辺でタバコを吸いながら空を向いているようでどこも見ていないかのような彼女の瞳。長門に抱かれているのに死にたい… とどこを見つめているかわからないような瞳。初めの頃は長門の方が死にたがっていたのに、だんだんと岡田茉莉子の瞳がどこを見ているのか分からなくなっていってしまう。この岡田茉莉子を見ていると、長門が死にたいと言っていたなんて全くの冗談にも見えてこないだろうか。彼は岡田茉莉子によって生きることを知ったのだし、彼も彼女を好きなのは間違いがないが、少しずつ心残りから思い出に消化されているのではないだろうか。だから3年、4年、そして10年と彼女と出会ってから17年の年月が経っているのに、最後の訪問はとてもあっさりとしている。まるで思い出の地で、記憶の中の女を抱くように。

しかし、待つことしかできない岡田茉莉子は、年月が経つほどに17歳の頃の「生」から徐々に「死」に意識が向かっていく。しばらく会えなかった長門に抱かれてみたり、それで嬉しがったり、17歳の頃の自分を再生しようとするが、結局は死にたくなってしまう。それまでにおいて「死」に関わるイメージはあまりにも出てきていない——例えば心理的要因で温泉地といった閉じられた世界がそういった死のムードを作り出すといった指摘はあるかもしれない——のであるが、ここで直線的イメージが画面に登場する。それは長門岡田茉莉子に頼んだカミソリだ。こうなってしまえば映画の最後は見えてしまう。

断ち切る直線的イメージは彼女の人生を終わらせる。彼女は死ぬのだから、長門は彼女をなかなか見つけられない。見つけたときにはすでに息を引き取っている。そして映画は終わっていくのであるが、そこでまてよ?と。直線的イメージは何もそこが初めてではないことに気づかされる。それは秋津を流れる川。そして川にかかる橋だ。川は初めて長門が初めて来たときに、起きてから川に入っていくシーンが印象的であるし、なによりも彼が死にたいといって選んだ場所が川だった。

そして橋は、秋津と街を隔てる一本の道である。何度も登場するその橋は秋津の孤立を強めてしまうし、長門の去っていく背中を捉える。離れまでの道も直線的であり、長門を追いかけたり、彼を拒んだりするときに何度も行ったり来たり、ドタバタと彼女が走っている姿が思い出される。本作では彼女を死に至らしめる直線的イメージ——日本家屋の横にしか動かない扉や畳など——が氾濫している。それが彼/彼女に、一定の距離を与え、すれ違いの物語を持続させる。そして同時に、生きること/死ぬことを逆転構造へと導いていくのだ。

あの頃映画 「秋津温泉」 [DVD]

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